頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2002年02月

午前中、一本の電話が入った。
「もしもし、Iですけど」
知り合いのI刑事からだった。
「署の洗濯機が壊れたっちゃねえ。引き取りしたやつでいいんやけど、使えるやつないかねえ?」
「さあ?確かめてないけ、使えるかどうかはわかりませんけど」
「まあいいや。うちの者行かせるけ、よろしくね」

今日は商品が大量に入荷する日で、朝から大忙しだった。
気がつけば、商品の検品や荷出しをしているうちに午後になっていた。
仕事が一段落し、ちょっと一息入れていると、「しんたさーん、お客さまでーす」と呼び出しがかかった。
行ってみると、体格のがっしりした坊主頭の男性がいた。
「しんたさんですか?」
「はあ」
「Iさんの紹介で来ました」
「ああ、聞いてます」
そしてぼくは、坊主刑事と一緒に大型ゴミを捨ててある場所に行った。
そこにはもう一人の刑事さんがいた。
顔は若いが、眼つきの厳しい人であった。
ぼくの顔を見るなり、眼つき刑事は「あ、お世話になりまーす」と挨拶をした。
「こちらこそお世話になりまーす」と、ぼくは返した。
そして、使えそうな洗濯機を探した。
大型のゴミ捨て場は、外部からの投棄を防ぐために、金網で囲ってある。
畳にして四畳半のスペース。
その狭い金網の中を、大柄の男が三人でゴソゴソやっている図というのは、異様なものがあっただろう。

この異様な風景を、遠くから眺めている人がいた。
よく見ると、うちの部門の取引先の人であった。
ぼくが気がつくと、その人はこちらに近づいてきた。
「こんにちは。しんたさん何やってるんですか?」
「実は・・・。あ、ここでは何やけ、ちょっとこっちに来て」と、他の場所に移動した。
「どうしたんですか?」
ぼくは声を潜めて「あの人たち刑事なんですよ」と言った。
「え!!何かあったんですか?」
「ちょっと前に殺人事件があったでしょ」
「え?そんなことありましたかねえ」
「あったやないですか」
「あ、ああ」
「それでその殺人現場になったのが、うちが洗濯機を配達した所だったんですよ」
「え、そうなんですか!!」
「その犯人がまだ捕まってないんですよ。それで、何か手がかりはないかと、事件の前にうちで引き取った洗濯機を調べてるんです」

ぼくたちがヒソヒソ話をしていると、坊主刑事が「しんたさーん、これ持って行きます」と言った。
「ああ、それですか。どうぞ持って行って下さい。お役に立ててよかったです。ご苦労様です」
ぼくは隣にいた取引先氏に「どうやらあれやったみたいですね」と言った。
「そうみたいですね」
「そういえば、あの洗濯機には髪の毛がついとったなあ・・・」
「・・・」
取引先氏は無口になってしまった。
かなり信じ込んでいる様子で、顔が引きつっているようにも見えた。
それを見て、ぼくは何か申し訳ないような気分になり、「冗談ですよ。冗談」と言い、いきさつを説明した。
取引先氏はやっと笑顔を取り戻したようだった。
きっと真面目な人なんだろう。
悪いことしたなあ。


「雪は残り花は遅れていた
 しかし彼らは知り尽くしていた
 ひとつの旅が終わったことを

 みんなどこでもいいから吹き飛びたいと言った
 というのも彼らの行くところはなかったから
 ひとつの旅が終わった時に

  薄暗い空から、雨も降り始めていた
  でもちょっと見回すと 晴れ間も見えていた

 誰かが死んでもいいと言った
 でももう死ぬところもないだろう
 ひとつの旅が終わっているから

 何かひとつ元気が欠けた
 大人たちは喜んだ
 ひとつの旅が終わっていた

  薄暗い空から、雨も降り始めていた
  でもちょっと見回すと 晴れ間も見えていた

 雪は残り花は遅れていた
 しかし彼らは知り尽くしていた
 ひとつの旅が終わったことを」


この詩を書いてから、もう26年が経つ。
詳しく言えば、この詩は昭和51年3月1日に書いたものである。
そう、この年この日にぼくは高校を卒業した。
ぼくは卒業式の最中、体育館の窓からずっと空を見ていた。
その日は小雨のぱらつく曇天の日だった。
たまに雲の隙間から日が差し込むのだが、何か気の落ち着かない時間だった。
うっすらと希望は見えているのだが、不安のほうが重くのしかかっていた。
そういう気持ちを表すのにもってこいの天候だった。
この日からぼくは、学生でもなく、社会人でもない生活を5年間強いられることになる。

誰しも過去を振り返る時、真っ先に思い起こす時代というものがある。
ぼくの場合、その理由は定かではないが、なぜかこの日から始まる2年間が思い起こされる。
年齢でいえば、19歳前後である。
その19歳前後の思い出というのは、「あの日、ハエを何匹殺した」とか「あの日、石炭と間違えて猫のうんこを掴んだ」などという出来事だけでなく、その時その時の考え、いや気分まではっきりと覚えている。
もしかしたら、ぼくの心はいまだにその時代に住み着いているのかもしれない。
今の自分は、19歳の心が経験という服を着ているだけではないのだろうか。
落ち着きのなさも、物事に対する雑さも、ほとんど19歳の頃と変わってないような気がする。
よく「しんたさんは頭が白いわりには若いね」とか「とても44歳には見えない」などと言われるが、それはぼくがまだ19歳であるからだ。
こう考えれば、その後ぼくがやらかしたこと、すべてが納得できる。
会社のお偉いさんが朝礼でお言葉をたれている最中に、「異議あり!」と反論して左遷の憂き目にあったことも、11年勤めた会社を考えもなしに突然辞めたことも、金遣いが荒いのも、いまだいたずら好きであるのも、19歳と思えばすべて納得がいくものである。
いまだにうっすらと希望は見えているのだが、不安のほうが重くのしかかっているというのも、ぼくがまだ19歳であるからだ。

どうして19歳なんだろう。
よりによって、今まで生きてきた中で一番辛かった時期を思い起こさなくてもよさそうなものなのに。
例えば、一番楽しかった17歳の頃とか思い浮かべてもよさそうなものである。
しかし、自分史の歴史区分をすると、ぼくにとって高校時代というのは「明治維新以前」つまり「プレ近代」なのである。
何か浮世離れしているのは否めない。
今に直接つながる時代というのは、どう考えても「維新以降」、つまり19歳以降ということになる。
じゃあ、「維新」というのはあったのだろうか?
ぼくは高校の卒業式を「維新」と捉えている。
「卒業式の最中、体育館の窓からずっと空を見ていた」ことこそが、ぼくにとっての革命だと思っている。


2月25日、旧暦の日にちなのか、新暦で換算した日にちなのかは知らないが、この日は菅原道真公が亡くなった日ということである。
太宰府天満宮では、この日を菅公が「亡くなった日」と言わずに、「天神さまになった日」としている。
菅公は903年に亡くなっているから、今年でちょうど1100年経つ。
ということで、天満宮では「菅原道真公 御神忌 一千百年大祭」というのを催している。
こちらのテレビやラジオでは、去年から頻繁にこの祭のCMが流れている。

菅公といえば「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という歌が有名である。
しかし、それ以上に有名なのが「白紙に戻そう遣唐使」である。
いかに歴史嫌いの人でも、一度は目にしたことがある言葉だろう。
これは別に菅公が言った言葉ではない。
1000年以上後のアホな学生が、年表を覚えるために作った語呂合わせである。
もちろん、遣唐使の廃止は菅公が建議したことなので、大いに関係のあることではある。
その頃は要職にあり羽振りのよかった菅公も、それから7年後、藤原氏の陰謀で大宰府への左遷を憂き目に会ってしまう。
その大宰府では、ほとんどあばら家状態の官舎をあてがわれたということである。
その後ヒッキーになった菅公は、それから2年後の昨日、「都に戻りたい」という無念を残して死んでいく。
菅公の遺体を乗せた牛車が止まって動かなくなった所が、現在の太宰府天満宮の建っている場所だという。

福岡県人のぼくとしては実に面白くない話である。
だいたい「大宰府行き=左遷」という図式は何か!
右大臣より下の位になったから左遷なのであって、大宰府に行くことが左遷だということにはならないはずだ。
こんな歴史を残すから、後世九州は最果ての地というイメージで捉えられるようになるんだ。
以前ぼくは、「横須賀のほうでは、九州に行ったら熊が出ると言ってるよ」と横須賀のおばさんが話していたのを聞いたことがある。
九州のどこに熊が出るのかは知らないが、ぼくの住んでいる北九州は、イタチは出るけど熊は出ない。
隣の宗像市でもイノシシがやっとである。
熊にお目にかかろうと思えば、動物園か阿蘇の熊牧場に行くしか方法はないだろう。
さらに野生の熊を見ようと思ったら、よほどの山奥に行かないと見れないはずである。
どの地方に住んでいようと、これは同じことではないのだろうか。
当時の筑紫(福岡)というのは、大陸との貿易で栄え、いわば流行の最先端をいっていた場所である。
仕事だけで捉えると左遷かもしれないが、そこでは都にはない新しい文化があったはずだ。
菅公は都で得た知識だけを善しとしたのだろうか?
学者としての自分を捨ててまで、出世に執着したのだろうか?

「遠(とほ)の朝廷(みかど)」という言葉がある。
その当時の人は大宰府のことをそう呼んでいたらしい。
遠くにある朝廷(今で言えば福岡本店などというのと同意か)と見なしてそう呼んでいたというのだが、これには異説がある。
「遠」を「遠い場所」という意味で使っていたのではなく、「遠い時代」という意味で使っていたというのだ。
つまり「遠い時代に朝廷のあった所」という意味である。
もしそうであれば、菅公は古都に行って嘆いたことになる。
現代風に言えば、京都に転勤して嘆くようなものである。
まあ、望郷の念はわかるにしろ、菅公はそんなに大宰府が嫌いだったのかなあ。
福岡県は菅公にちなんで、というより気を遣って梅の花を県花にしているのに。
それに県内には菅公ゆかりの地というのが多くある。
北九州市戸畑区に菅原神社という神社がある。
ここは京から大宰府へ赴任する途中に、菅公が足を洗った場所だという。
まるで「好きな芸能人と握手した手を洗わない」というファン心理のようなものじゃないか。
県民はここまでして菅公を慕っていたのに、菅公の目はいつも京を見ていたわけだ。
何か寂しい気がするものである。

ああ、そうか!
その当時にはまだ「とんこつラーメン」がなかった。
それが菅公は面白くなかったんだ。
さらに、「中洲」がなかったから腐ったんだ。
もし菅公が1100年後に生きていたとしたら、きっと進んで福岡に行きたがったに違いない。
そう思うことにしよう。


昨日の件だが、2,3腑に落ちないことがある。
Tさんに通報してきたお客のことである。
たしかに段ボール箱は駐車場に置いてあったのだが、それは車を停めるのに支障をきたすような場所に置いていたわけではない。
車止めの向こう側にあったのだから。
それに、この段ボール箱は、どこにでもある箱だった。
他のお客も、そこに箱があるのは知っていたはずだ。
しかし、他の人は誰も言ってこなかった。
おそらく、「お店なんだから、別にこういう箱があってもおかしくない」と気にしなかったのだろう。
もしぼくが見つけていても、気にせずに放っておいただろう。
それなのになぜ、そのお客は気になるんだろう?

他のお客さんが気にしなかったのではなく、他のお客さんが来るまでその箱はなかった、ということも考えられる。
ということは、その箱を置いたのは・・・。
裏付けはある。
実は今日、そのお客がまた現れたらしい。
そして、「あのう、昨日の箱はどうなりましたか?」と聞いてきたという。
怪しい。
犯人は犯行現場に戻るという。
昨日駐車場でぼくがドキドキしている時、そのお客は横でボーっと突っ立っていた。
あの時「警察呼ぼう」と言えばよかった。
そして、そのお客の反応を見るべきであった。
残念なことをした。

ところでぼくは今日、朝から店長と会うのを楽しみにしていた。
店長はぼくを見つけると、案の定「昨日何があったんね」と聞いてきた。
ぼくは昨日の日記の順番通りに、わざとゆっくり説明した。
し「ほんと、大変でしたよ。
12時ごろやったかなあ。
お客さんがTさんにですねえ・・・・。
・・・・ですよ。
それで、駐車場に行ったんです」
店「で、中身は何やんったん?」
し「それでですねえ、・・・・」
店「で、中身は?」
し「やっぱり、こういう時は誰でも怖いでしょう?
そこで、箱をですねえ・・・・たんです」
店「もう、中身は何なんね?」
せっかちな店長はイライラしだした。
店長はわかりやすい人で、イライラすると顔が赤くなるのですぐにわかる。
なおもぼくは、「それでですねえ・・・・」を繰り返した。
そして、最後に中身を教えた。
店長は大きな声で「イタチー?!」と言った。
今度は憤慨して顔が赤くなった。

店長と話すのは実に楽しい。
店長が休みの時に、またこういう事件が起こらんかなあ。


店で困った問題が起きている。
ぼくの働いている店は、2Fが駐車場になっているのだが、最近そこがゴミ捨て場になっているのだ。
昨日の朝、ぼくがいつものように2Fの駐車場の鍵を開けに行ったところ、市の指定のゴミ袋に入ったゴミが捨ててあった。
もはやカラスに荒らされた後なのか、ゴミはいたるところに散らばっていた。
清掃のおばちゃんがさっそく駆けつけ、「何もこんな所に捨てんでも、よさそうなものなのに。ちゃんと指定日に出せ」などと、ブツブツ言いながら片付けていた。
これまでも、タバコの吸殻を大量に捨てていたり、コンビニやホカ弁の袋にゴミを包んで捨てていた例はあるが、今回のような本格的なゴミは初めてのことだった。

さて、今日の話である。
午前中わりと暇だったので、テレビでオリンピックを観戦していた。
そこに隣の売場のTさん(女性)がやってきた。
「しんたさん、手が空いてたら、ちょっと来て欲しいんやけど」
何だろうと聞いてみると、「お客さんが、2Fの駐車場に不審な箱が置いてあると言ってきたんよ。行って欲しいんやけど」と言う。
ぼくはそれを聞いて、すぐさま頭の中で「不審な箱」を検索してみた。
検索結果は「爆発物」であった。
おそらく最近「不審な箱」と聞いて、「爆発物」を連想しない人はいないんじゃないだろうか?
ちょうど通報したお客さんも一緒にいたので、詳しい話を聞いてみた。
「何かゴソゴソ動いているんです」と言う。
そこでまたぼくは、頭の中で「不審な箱 ゴソゴソ動く」を検索してみた。
「動物」という結果が出た。
さらに検索していくと、「子犬、猫、ネズミ、ヘビ、イグアナ・・・」という結果が出た。
「さて何だろう?」ということで、現場に向かった。

現場に着いてみると、そこには一升ビンが6本ほど入る月桂冠の段ボール箱が置かれていた。
封は開いていたが、ビニールのひもでくくってあった。
中身が何か確認しなければならない。
そう思ったとたん、心臓が高鳴りだした。
考えてみれば、こういう役回りはいつもぼくにやってくる。
人が倒れていた時も、酔っ払いが暴れていた時も、いつも汚れ役だ。
「損な運命を背負っとる」と思いながら、ひもをずらして箱のふたに手をかけた。
心臓は相変わらず高鳴っている。
「待てよ」
ぼくはふたから手を離し、顔を箱に近づけ、犬や猫を呼ぶ時のように、舌を鳴らしてみた。
「チ、チ、チ」
「・・・」
「チ、チ、チ」
「・・・」
反応はない。
「しかたない。開けるか」
もう一度、ふたに手をかけた。
「いや、待てよ」
また手を離し、今度は箱を軽く蹴ってみた。
「・・・」
もう一度蹴った。
「・・・」
反応がない。
「しかたない。開けるか」
再度、ぼくは箱のふたに手をかけ、「損な役回りやのう。もうどうにでもなれ!」と思いながら、片方のふたを開けた。
「!?」
中には、何かビールケース、いや牛乳ケースのようなものが入っていた。
中を覗いてみたが、暗くてよくわからない。
におってみると、やはり何か生き物が入っているのだろう。
糞のような臭いがした。
ケースの前にたたずんでいたが、どうしてもその牛乳ケースのようなものに触る気がしない。
触れたとたんに「バーン」となるかもしれない。
ヘビが出てきて、手を噛み付くかもしれない。
いろんな思いが、ぼくにケースを触らせようとしない。
このままそこにいても埒が明かないから、ぼくは箱を閉じ、それを1Fの事務所前の商品搬入口まで持って行くことにした。
抱えてみるとそれほど重いものではなかったが、いつ「バーン」と鳴るかと思うと、あまりいい気持ちはしなかった。

搬入口に着くと、ちょうどそこには店長代理がいた。
「しめた」と思い、「この箱が2Fの駐車場に放置してあったんですけど」とぼくは言った。
「何それ?」
「さあ?中に牛乳のケースのようなものが入ってるんですけど。それに何か生臭い」
「そこに放っとき」
「そういうわけもいかんでしょう」
「じゃあ、開けてみようか」
ということで、二人で開けてみることにした。
ひもをカッターで切り、ふたを全開した。
しかし、やはり中が暗くてよく見えない。
代理が懐中電灯を持ってきて、箱の中を照らしてみた。
「あっ!」
愛くるしい目がこちらを見ている。
黄土色の小動物、イタチである。
ぼくはイタチが街中を駆けていくのを何度か見たことがあるが、こうやってじっくり顔を拝むのは初めてのことだった。
牛乳ケースのようなものは、罠であった。
足を挟まれて動けなくなっているようだ。
よく見ると、足が一本取れ、血が流れている。

代理とぼくは顔を見合わせて、「どうしようか」と言った。
「死んどったら、生ゴミとして出すことも出来るけど、生きとるしねえ」
「離したら、一発かまされるやろうし。警察に届けましょうか?」
「いや、イタチぐらいで警察は来んやろう」
「でも、不法投棄ということで、一応知らせとったほうがいいんやないですかねえ」
「あ、そういえば、ネズミ駆除とかする所を知っとるけ、聞いてみよう」
代理はさっそく電話をかけた。

「今日の夜、引取りに来てくれるらしいよ。黒い袋で包んどってくれと言うことやった」
そこで店にあった黒い袋で包んだ。
「このままじゃ、不審がられるけ、一筆書いときましょう」とぼくは言い、“中には、罠にかかったイタチが入っています”と白い紙に赤字で書き、その箱に貼っておいた。

夜になって、業者がイタチを引き取りに来た。
「しかるべき場所に捨ててくる」ということだった。
これで、一応この事件は解決したわけである。
が、問題はまだ残っている。
だいたいどこのどいつが、この箱を放置していったんだろう?
自分で捕まえたのなら、自分で始末しろ!
そういう処理の仕方も知らない、スーパーの駐車場に放置して何が面白いんだろうか。
生ゴミでもうんざりしているのに、もういいかげんにしてもらいたいものである。
常識をわきまえろ!!

さて閉店後、今日用があって休んでいた店長からぼくの携帯に電話があった。
店「終わった?」
し「今から閉めます」
店「今○○店におるけ、そこに売り上げ流すように代理に言うとって」
し「わかりました。そう言えばいいんですね。ところで、今日大騒動があったんです」
店「え?」
し「不審な箱が2Fの駐車場に放置してあって・・・」
店「何が入とったん?」
し「それが大変なものやったんです」
店「警察呼んだ?」
し「いえ、呼んでませんけど」
店「何やったんね?」
し「今日は言えません。明日言います」
と、ぼくは電話を切った。

店長は気になって、今頃眠れないでいるだろう。


<謀将小泉>
案外真紀子更迭というのは、首相が仕組んだ罠だったのではないだろうか?
まず、真紀子を更迭し、宗男議員が外務省に大手を振って出入りできる環境を作る。
そこで宗男を泳がせておき、馬脚を現すのを待つ。
その間、あえて何も言わず、秘密裏に情報を得る。
そういう情報を、自らが疑われることがないように、こういうことが好きな共産党に流し、そして言わせる。
宗男議員は議員辞職。
内閣解散。
第二次小泉内閣において真紀子は内閣復帰。
再び小泉内閣は支持率を上げる。
もし、一連の騒動の中にこういう意図が隠されているとしたら、小泉さんという人はかなりの策士である。


<裏オリンピック憲章>
・まず、オリンピックは白人が始めた、白人のためのスポーツの祭典である、という基本を忘れてはならない。
・有色人種には、なるべく金メダルを与えないようにしなければならない。
・もし、ある競技で有色人種が優勝した場合は、次の大会までに、彼らが不利になるようなルールを作らなければならない。
・審判団は、オリンピックがいかにアメリカに支えられているかを理解しておかなければならない。
・採点競技において、もしその競技にアメリカ人の優勝候補者がいた場合は、よほどのミスがない限り、アメリカ人を優勝とすること。
・アメリカ選手の優勝候補者が二人以上いる場合は、白人であることが優先されるのは言うまでもない。
・アメリカ人選手の演技のみ、観客に歓声を上げさせ、審判の印象をよくする工夫が必要である。
・アメリカ選手各個人の判断は常に正しいのであるから、審判は謙虚に彼らの言い分を聞き、彼らが有利になるように動きなさい。


<大企業病>
うちの母親は以前シルバー人材センターの仕事をしていたが、その時によく「大企業や公務員出身の人ほど仕事をしない」と言っていた。
ことあるたびに「私は以前○○で働いていた」と自慢し、ほかの人を見下す態度をとるらしい。
当然その人一人だけ浮いた存在になり、辞めていくパターンが多いそうだ。
取引先や下請け業者をあごで使っていく過程で、働くという意味を履き違えていったのだろう。
まあ、そういう企業の体質はいかんともしがたいものがあるのかもしれないが、せめて「実社会」に出た時の最低のマナーくらいは勉強してほしいものである。
こういう人たちに限って、「大企業(公務員)出身だから私は偉い」と勘違いしている人が多い。
まずここから改めなければならない。
「企業はその人の人格や能力を表すものではない」ということを知る必要があるだろう。
これと似たようなもので、出身大学のプライドというのもある。
官僚の中には「東大卒以外は人間ではない」と思っている人間が、実に多いと聞く。
こういう人たちも、「東大に入ったのは、東大に入る才能を持っていたというだけのこと。決してそれは社会的な能力や、人物の大きさに関する尺度にはならない」ということを覚えておいたほうがいいだろう。
学校の成績がいいことを「頭がいい」「偉い」と表現する風潮は、もういいかげんにやめてほしいものである。
そういう風潮が、こういう馬鹿を生んでいるのだから。


さあ始めよう。
今日も上り坂だけど、明日は早出だからそうも言っていられない。
早く書いて、早く寝ることにします。

20日が給料日だったので、今日は銀行に行ってきた。
約一ヶ月ぶりに黒崎に出たが、以前と比べると人通りも増えてきたようである。
去年の「黒崎そごう」閉店後の最悪の状態から比べると、かなりいい回復してきているようだ。
今月11日に長崎や黒崎店が閉店したが、その影響も少なくてすんでいるみたいだ。
3月6日には、個人的に心待ちにしていた「ブックセンター・クエスト」が移転オープンするし、北九州副都心の再建は着々と進行している。

さて、今日は黒崎に出る前にちょっと寄り道をしていった。
月明り掲示板の契約が3月で切れるので、更新の手続き、つまりお金を払い込むために郵便局に行ったのだ。
実は「月明り掲示板」は有料レンタルである。
このホームページを立ち上げた当初、別の無料掲示板を使っていたのだが、動作が安定せず、さらに訪問客同士がバトルを繰り広げる展開になった。
嫌気が差したので、その掲示板を閉鎖して、新しい掲示板を探していたところ、今の掲示板が見つかったのだ。
当初は無料版にしていたのだが、使い勝手が悪かったので、有料版の無料体験版を一ヶ月借りてみることにした。
もちろん、お金を払ってまで借りようとは思ってはなかったのだが、有料版は高機能で使い勝手がよかった。
「一ヶ月限定なので、ほかの掲示板にしようと思います」と言ったところ、「この掲示板がいいので、やめないで」という声まであがった。
「しかたない」と思い、「しろげしんたさ~ん」と呼ばれるのを覚悟で、郵便局に払い込みに行った。

あれから一年が経つ。
今日も去年と同じように、歩いて郵便局に行った。
家から郵便局まで、歩いて20分ほどかかるのだが、その途中春に出会った。
ぼくが待ち望んでいた香りがしたのである。
沈丁花の香りである。
毎年この香りがすると、「これで嫌な冬から解放される」という思いがしてホッとする。
キャンディーズではないが、重いコートを脱いだ気分になるのだ。
天気予報などで「三寒四温」という言葉が聞かれるようになったのも、嬉しいことである。
あとは春一番を待つばかりだ。
春はもうそこまでやって来ている。

ーーーーーー

そういえばさっきから救急車の音が鳴り止まない。
けっこう長い時間なっているような気がするのだが。
もしかしたら、宗像の列車衝突事故のケガ人を運んでいるのだろうか?
あのへんは病院が少ないから、こちらに運んできたのだろう。
今回はイノシシが原因らしい。
おそらく、城山から降りてきたイノシシが軌道内に入ってきたのだろう。
つい最近うちの近くで、JRの線路で遊んでいた小学生が電車にはねられる事故があったばかりだ。
JRも線路脇に有刺鉄線を張り巡らすとか、金網に電流を流すとかして、線路に入らせないようにしないと、また同じような事故が起こるだろう。


今日も霊のおかげで更新が遅くなりそうだ。
昨日は霊のことなど書くつもりはなかったのだが、どうしても書けと霊がせがむので、一応霊の顔を立てた次第である。
それで納得したのか、昨日は金縛りにあわなかった。

では、昨日は何を書こうと思っていたかと言うと、「ちょっといい話」を書くつもりでいたのだ。
最近日記を書くのが、「辛い」とか「きつい」とか思うことがよくある。
さすがに一年以上も日記の更新を続けていると、次第に書くこともなくなってくる。
「その日に起こったことや、考えたことを書けばいいじゃないか」と言ってくれる人もいるのだが、毎日変化に飛んだ生活を送っているわけでもないし、毎日お客さんとバトルをやっているわけでもない。
基本的には、午前7時半に目が覚めて、9時に家を出て、10時から店が開店して、午後4時から昼食をとり、8時20分に会社を出て、8時39分に家に着き、9時30分に風呂から上がり、10時30分から酒を飲み、11時からパソコンに向かうだけの毎日である。
仮に「その日に起こったこと」を日記に書くとすれば、毎日「基本的」を書かなければならなくなる。
「その日考えたこと」といっても、いつも何を考えているかと言えば、「これが終わったら、あれをせないけん(あれをしなければ)」ということだけだ。
こんなことを日記に書くわけにはいかないだろう。
こういう変化のない毎日の中で日記に取り組んでいるから、つい「辛い」だの「きつい」だの言う愚痴が出てしまう。

「辛い」「きつい」
もしジョセフ・マーフィーやノーマン・V・ピールといった積極思考の人が、そういうマイナス思考の言葉を聴いたら、「そういうことを口にするのは今すぐやめなさい。さもないと、あなたは口にしたとおりの人生を歩むことになるだろう」と言ってくるだろう。
たしかに以前のぼくはこういう言葉を使わなかった。
こういう言葉を使うと落ち込んでいくような気がしたからだ。
しかし、最近は違う。
こういう、マイナス思考言葉を好んで使うようになった。
それには理由がある。
何年か前に、上岡龍太郎の出ている番組を見たことがある。
その時彼は、マラソンの話をしていた。
「いつも走っているコースに『辛いなあ、きついなあ』と思う場所がある。
よく考えてみると、そこは上り坂だった。
逆に『楽だなあ』と思う場所もあるのだが、そこは下り坂だった。
これは人生でも言えるのではないか」
という話だった。
これを聞いて、何か勇気をもらったような気がした。
ぼくがマイナス言葉を好んで使うようになったのは、この話を聞いてからだ。
「辛い」「きつい」と思う時が人生の上り坂だと思えば、こんなに楽しいことはない。
「辛い・きつい、どんどん来てくれ」という気にもなる。
だから日記を書く時にも、「今日はきついのう。でも上り坂だ。いいことあるぞ」といつも思っている。
書くことが浮かばない時も、この気持ちで何とか乗り切っている。

もしこの日記が何時になっても更新されないでいたら、「しんたは上り坂なんだ」と思うようにして下さい。


最近、寝不足のせいかどうかは知らないが、霊と波長が合っているようだ。
三日間続けて金縛りにあった。
昔から寝不足になるとよくこういう状態になるのだが、これまでは体が宙に浮くことが多かった。
おそらく幽体離脱をしていたんだろう。
しかし、今回のはちょっと違うようだ。
誰かが乗っているのである。
一度目は、18日午前3時半頃だった。
日記を書き終えたぼくは、早く寝ないとと思いながらも、寝付かれずにいた。
その時、人の気配がした。
「誰だろう?」と思っていると、その気配はぼくの肩元にやってきた。
そして布団を掴んで、ぼくの頭までかぶせてしまった。
「おいおい、何が始まるんだ?」と思っていると、急に体が重くなった。
「これは霊やないか!」と思い、こういう時のために覚えておいた“延命十句観音経”というお経を唱えた。
もちろん声は出ないので、心の中で
「観世音、南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、念念従心起、念念不離心」
と唱えた。
42文字の、般若心経より小さなお経で、江戸時代の高僧白隠が広めた霊験あらたかなお経だときく。
このお経を唱えると、だんだん体は軽くなっていった。
その日は、これだけで終わった。

二度目は、19日の何時ごろだったろうか?
今度は寝ている時に襲ってきた。
しかし、前日のことがあったので、すぐさま体勢を変えた。
ぼくの場合、金縛りはいつも仰向けで寝ている時にやってくるのだ。
そこで、ぼくは体を横向きにした。
すると霊の奴は去っていった。
しかし、その後しばらく眠れなかった。

三度目は、20日の午前3時過ぎ、つまり今日である。
一度目と同じく、寝付かれずにいた時に襲ってきた。
さすがに頭にきた。
今度はお経を唱えずに、心の中で「おい、いい加減にしとけよ!お前はおれに用があるかもしれんけど、おれはお前に用はない!出ていけっ!!」と一喝した。
しかし霊は離れようとしない。
そこでぼくは、伝家の宝刀「般若心経」を持ち出した。
今まで、このお経を唱えて離れなかった霊はない。
全文唱えるにこしたことはないが、お経が出てこない時には、「摩訶般若波羅蜜多!!」だけでも効果がある。
とにかく一心不乱がコツである。
今日は「摩訶」だけでよかった。
霊はさっさとどこかへ行ってしまった。

どうしてぼくは、こうも霊に好かれるんだろう?
3年前に、車を塀にぶつけたことがある。
その前日に死亡事故現場を通ったのだが、その時霊を連れてきてしまい、それで起こした事故だと思っている。
ばあさんの霊とか、子供の霊とか、霊がぼくの周りにうようよしている。
いつか断ち切ってやろうと思っているのだが、その修行が出来てない。
また、なかなかその暇がない。
しかたないので、しばらく見て見ぬふりをしていようと思う。
たまには、昔みたいに霊を怒鳴り上げたりしてみるか。
ああ、そうだった。
それよりも早く寝て、霊と波長を合わせないようにすればいいんだ。
そのためには早く寝ないとならない。
しかし、日記を早く書かないと寝られないし。
もしかしたら、霊はぼくと会いたいがために、ぼくが日記を書くのを邪魔しているのかもしれない。


「ああ、今日もこの扉を開いてしまった」という気持ちで、この日記のエディタを開いた。
「今日はいったい何を書くんだ?」と自分に問いかけるが、答はいつも「・・・」である。
こういう時、ボブ・ディランなら「その答は、ただ風に舞っているだけさ」(風に吹かれて)と答えるだろう。
無責任な「答」である。
結局は「わからん」と答えているに過ぎないのだから。
しかし、この「答」が60年代初頭のアメリカ人の心を捉えた。
そこからディランの人生が変わってくる。

ディラノジストという人たちがいる。
ボブ・ディランの研究者、つまり「ボブ・ディランおたく」である。
「この歌詞は、○○を意味しているのだ」などとのたまっているらしい。
ディランの詩は実に難解である。
おそらく誰も理解できないだろう。
しかし、「われこそはディランの一番のファンである」というのを誇示している連中は、それではすまされない。
そこでディランの歌詞に、いろいろと解釈をつけだした。
その解釈というのが、実は「こじつけ」なのだ。
しかし世間は、「あの“答”を与えてくれたディラン様を研究している人たちのいうことは正しい」と思うようになった。
ディラノジストの解釈は、実にさまざまである。
中には哲学的解釈をしている人たちもいる。
世間はそういう解釈を受け入れた。
そのおかげで、ディランはついに哲学者と呼ばれるようになった。
最初はディラノジストの解釈を否定していたディランも、哲学者と言われて悪い気はしない。
彼も哲学者として振舞うようになった。
今ではアメリカの英雄である。

拓郎の影響もあってか、ぼくは高校時代からボブ・ディランを聴くようになった。
今でもそうだが、ぼくはレコードを買ったら一番に歌詞カードを見る。
初めてディランのレコードを買った時もそうだった。
「拓郎も気に入っているくらいだから」と期待に胸を膨らませて、歌詞カードを見た。
「・・・。何か、これ・・・」であった。
はっきり言って無茶苦茶だった。
しかしその時は、「これを理解するだけの経験が足りんのやろう」くらいに思っていた。
聴くほどにディランが好きになり、自伝なども読んだ。
しかし彼の生き方などはわかるものの、詩のほうはいっこうに理解できないままでいた。
それから後、自分なりの詩が書けるようになって、ふと思ったことがある。
「もしかしたらディランの詩は、語呂のよさだけで言葉を並べたものじゃないのか」
そういえば、ディランはよくライブで歌詞を変えて歌っていると言う。
多分それは、単語を並べただけの歌詞だから、覚えることが出来ないのではないか。
「関連のない単語を100個覚えろ」と言われても、そう簡単に覚えられるものではない。
イメージが浮かばないからである。
と言うことは、自分の作った詩を覚えられないと言うのは、イメージが浮かばないということであろう。
なぜ、イメージが浮かばないか?
それは、詩に意味がないからである。
これに気づいてから、初めてディランを歌手と思うようになった。
実に味のある声である。

アメリカ国民も、そろそろディランを解放してあげたらどうだろう。
まあ、自分たちが勝手に哲学者に仕立てたのだから、引っ込みがつかんか。
ボブ・ディランはいつまでも風に舞ったままである。


ジャンプを見ながら眠ってしまっていた。
結局見たのは、原田の1回目のジャンプだけだった。
ここ最近、日記の更新が3時4時までかかっているので、その疲れが一気に出たものと思われる。
日記も毎日やっていると、特別なことではなくなり、生活になってしまう。
まあ、生活だからこういうこともあるということです。

しかし、どんなことでも、その日やるべきことをやり終えないで寝るというのは、あまり気持ちのいいものではない。
最近、日記を書き終えると、それなりの満足感を覚えるようになった。
普通満足感というのは、そう味わえるものではない。
その満足感を毎日味わえるのだから、これは幸せなことだと言わなければならない。
日記を書く書かないが問題ではない。
その満足感を味わうか味わわないかが問題なのだ。
つまり日記を書かないで寝るというのは、その満足感を放棄することになるのだ。
たしかに今日は夢見も悪かった。
そこには、日記を書かないことへの不満足感があったのだろう。
矢吹丈がホセ・メンドーサとの試合で、「おっちゃん、最後までやらせてくれや」と言ったのも、試合の勝ち負けではなく、その充足感へのこだわりがあったのだと思う。
捉えようによっては不幸な終わり方になってしまったが、実は彼は幸せな人間だったんだ。

それを考えると、ぼくは「たいした生き方をしてこなかったんだなあ」とつくづく思う。
なぜなら、ホームページで日記を書くまでこの満足感を味わったことがなかったからだ。
ジョーの言う「そのへんのやつらのように、くすぶって」いたわけだ。
柔道にしろ、音楽にしろ、何か中途半端だった。
無理に自分を作っていただけで、結局は生活にはならなかった。
ぼくは常々「人生とは日常だ」と思っている。
つまり特別なことではない、ということである。
特別なことをやろうとすると、力んでしまう。
力んでしまうと無理をする。
だから続かない。
ということは、柔道や音楽は、ぼくにとっては特別なことだったのだろう。

ま、とにかく、この歳になって初めて満足感を得られるものに出会ったわけである。
若い頃ぼくが理想とした「矢吹丈」に一歩近づいたわけである。
このまま続けていって、最後は「真白な灰」になって散っていこうと思う。


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