頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2002年05月

東京にいた頃、よく読んでいたのが『少年チャンピオン』だった。
東京に出る前に、友人から「チャンピオンに面白いマンガが載っとるぞ」と聞いて読み始めたのだった。
『少年チャンピオン』といえば、『少年キング』と並び、それまでぼくが読んだことのない雑誌のひとつだった。
それまでに、そこに連載しているマンガで、読んだことがあるものといえば、永井豪の『あばしり一家』ぐらいだった。
その当時話題になっていた『がきデカ』と『ドカベン』は知ってはいたが、読んだことはなかった。

友人から面白いマンガの存在を知らされたぼくは、さっそく読んでみることにした。
しかし、別段これと言って面白いものではなかった。
「これのどこが面白いん?」
「面白いやろうも。ちゃんと読んでみてん」
何度か続けて読んでみたが、ぼくにはその面白さがわからなかった。
そして、「全然面白くない!」と言って、ぼくはそのマンガを読むのをやめた。

そのことがあって、何日かしてからのこと。
巷ではけっこうこのマンガが話題になっていた。
他の友人も、このマンガを絶賛していた。
「あまり面白くないのに、何でこうも受けるんだろう?」
そう思ったぼくは、もう一度そのマンガを読んでみることにした。
しばらく読んでいくうちに、突然このマンガのギャグが見えてきた。
「面白い!」
それまでは、理屈で読んでいたのだった。
理屈ぬきでこのマンガを読んでみて、初めてその面白さがわかったのだ。
さらに、このマンガはスピード感のあるマンガだったから、そのスピードに慣れるまでに時間がかかったともいえる。
『天才バカボン』以来、ギャグマンガから遠ざかっていたので、きっとギャグマンがを受け入れるセンスを失っていたのだろう。
ぼくは何度もそのギャグに耽ってしまった。
そして、はまってしまった。
そのマンガとは、後にギャグマンガの名作と謳われた、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』である。
このマンガは、ぼくの東京生活になくてはならないものとなった。
約2年間、毎週ぼくは少年チャンピオンを買い続けた。

さて、一度ギャグマンガの受け入れ態勢ができると、当然のように他のマンガも読んでいくようになる。
しかし、あまりに『マカロニほうれん荘』が強烈だったために、なかなか面白いマンガに出会うことはできなかった。
『マカロニほうれん荘』を読み始めてから1年半が過ぎた時、ついにそのマンガに出会うことになる。

その頃、ぼくは毎日代々木のピザ屋に通っていた。
価格が安かったのと、いろいろなマンガを置いてあったので、気に入っていたのだ。
そこで、何気なく少年マガジンを読んでいると、新人の読み切りマンガが載っていた。
初めてそのマンガを読んだ時、何か小学生の頃に読んだマンガを思い出して、懐かしさを感じたものだった。
画はそれほどうまくなかったが、内容がすばらしくよかった。
その後そのマンガは、連載されることになった。
小林まことの『1・2の三四郎』である。

この『1・2の三四郎』だが、一度ぼくの周りで「お前、三四郎のモデルじゃないんか」と話題になったことがある。
理由は、柔道部に参加していたこと。
試合表にうちの高校の名前が出ていたこと。
桜五郎の嫁さんのコーキーさんの博多弁は、実は北九州弁であること。
そして、何よりもそれらしかったのが、『黒崎高校の柳』である。
ぼくが柔道部にいた頃、一時廃部の話が出たことがある。
上級生がやめ、部員が極端に減ったのだった。
ぼくは慌てて部員集めに精を出した。
そして、7名の部員と16名の会員を確保した。
その16名の会員の中に、柳という男がいた。
がり勉タイプで、線が細く、まったくスポーツとは縁のない男だった。
何度か部室に訪れたが、結局長続きせず、「肺に穴が開いた」とか言って辞めていった。
実はその柳が、黒崎中学の出身だったのだ。
『黒崎高校の柳』と『黒崎中学の柳』、絶対そこには何かある、となったわけである。
真偽のほどは知らないが、もしかしたら本当に何かあったのかもしれない。
しかし、ぼくは三四郎みたいに強くなかったし、また精神力で背を伸ばすような甲斐性のある男ではない。

その後、作者の小林まことが新潟の出身とわかり、「黒崎とは新潟の黒崎のことやろう」ということになり、疑いは晴れた。
しかし、今になってみると、ちょっと惜しい気もする。


この日記の特徴は、クモ膜下出血のことを書いた翌日にマンガのことを書く、という支離滅裂なことを平気でやることにある。
ということで、今日はマンガのことを書く。

今ぼくは、四つのマンガを読んでいる。
一つ目は、毎度おなじみ西岸良平の『鎌倉ものがたり』、二つ目は、どおくまんの『熱笑!花沢高校』、三つ目は、藤子A不二男の『魔太郎がくる』、四つ目が、昨日人から借りた『魁!!クロマティ高校』である。
一つ目は、もう説明しない。
二つ目は、本家の秋田書店では廃刊になっていたものが、別の出版社からコンビニ本として復活したものである。
東京にいた頃に読み始め、訪問販売の時にマンガ喫茶で続きを読み、今また読み直している本である。
三つ目の『魔太郎がくる』も、マンガ喫茶でよく読んだ本である。
四つ目の『魁!!クロマティ高校』は、現在『少年マガジン』に連載しているマンガである。
画は劇画調であるが、中身はギャグで、そのギャップが非常に面白い。
今、第4巻を読んでいるのだが、掲示板荒らしのことなどが書いていて、大変
興味深く読んでいる。

さて、それらの本をぼくはいつ、どこで読んでいるのか。
気が向いた時に、ある時は風呂の中、ある時はトイレの中、またある時は職場で読んでいる。
これは昔から変わらない。
当時はバスや電車の中で読んでいた。
授業中でも、マンガのことを思い出すたびに読む。
また就寝中でも、ちょっと目が覚めた時に、パラパラとページをめくったりしていた。

授業中に一度失敗したこともある。
一年生の時だった。
リーダーの時間急に、学校に持ってきていた『夕焼け番長』が読みたくなった。
ぼくはこういう時、自制心が効かない。
机の下で本を広げて読んでいると、突然「こら、前から4番目。今何しよったか」、とリーダーの先生が怒鳴った。
ぼくは知らん顔をしていた。
すると先生は「机の下のもの出してみ」と言った。
ぼくは、『うるさいのう』と思い、ほかのものを出そうとした。
が、あいにくその時机の中に入っていたものは、『夕焼け番長』とトランプだけだった。
一瞬、どちらを出そうかと迷ったが、マンガのほうが罪がないと思い、『夕焼け番長』のほうを出した。
「これは、お前の本か?」
「貸本です」
「誰の本か?」
「だから、貸本です」
「誰の本か、言えんのか!」
「貸本と言いよるでしょうが。貸本屋の」
「・・・そうか。これは没収させてもらう。欲しければ、後で職員室に取りに来い」

ぼくはこの教師が好きではなかった。
自分ひとりで授業するし、ギャグも面白くなかった。
それに、いつもぼくを目の敵にしていたようなところがあった。
そんな人と、話す気は毛頭なかった。
当然のごとく、ぼくは職員室には行かなかった。
しかし、困ったことがになった。
その日、貸本屋に返すことになっていた本だったのだ。
かばんの中には、その本の前の巻が何冊か入っていた。
その巻だけ、抜けているのもおかしいが、とりあえず持っているだけ返した。
とうとう本は戻ってこなかった。

それから間もなくして、クラスで風邪が流行ったことがあった。
その時期にぼくは、風邪も引いてないのにマスクをしていったことがある。
予防のためではなかった。
ただのシャレである。
ちょうどその日に、リーダーの授業があった。
高校の頃、先生は教科書を読ませたり、質問をする時には、必ずと言っていいほど、日付の数字と同じ出席番号の人を当てていた。
下一桁がいっしょの場合も、当たったものだった。
その日は、ぼくの出席番号の日だった。
「今日は11日か。出席番号11番、読んで訳せ」
「・・・」
「11番は休みか?」
ぼくは手を上げた。
「おるやないか。早く読め」
ぼくは風邪で声が出ないふりをした。
「お前、何でマスクなんかしとるんか。そのマスクは外せんとか?」
ぼくは首を振って、後は知らん顔をした。
隣の席の者が「しんた君、風邪で声がでないんです」
「本当か?」
最後まで、彼は疑っていた。

さて、この日記もマンガを読みながら書いているので、とりとめのないものになってきた。
実は、あるマンガの主人公のモデルがぼくじゃないか、という話になったことがある。
それを書き出すときりがないので、その話は明日書くことにする。


寝不足後遺症というか、何というか、どうも頭の中に膜が張っているようで、なんとなくすっきりしない。
まあ、そういう状態は高校時代から続いているので、別に珍しいことではないが。
しかし、ここ数日、頭に関することには、変に神経質になっている。
言うまでもなく、伊藤俊人さんのことがあってからのことだ。
その死因である『クモ膜下出血』が、対岸の火事ではない年頃だから、とくにそう感じるのかもしれない。

クモ膜下出血、3年ほど前にうちの会社の男性がこの病気で亡くなっている。
ぼくより、10歳ほど年上の方だった。
以前ぼくがいた部署は、彼の部署の隣だったのだが、彼には大変お世話になった。
よく、倉庫整理を手伝ってくれたり、フォークリフトの動かし方を教えてくれたりした。
亡くなったのは、ぼくが今の職場に転勤した年だった。
ある日、彼が病院に運ばれた、という情報が入った。
その日の午後、ほかの人が食事から戻ってくると、彼は「頭が痛い」と言ってしゃがみこんでいた。
程なく、救急車が到着した。
自分で救急車を呼んだという。
そして、彼は気丈にも「大丈夫」と言って、笑顔で救急車に乗り込んだ。
病院に到着する頃には、もはや彼の意識はなかったそうだ。
それから約1ヶ月、彼は意識が戻らないままあの世に行ってしまった。
彼もダイエーホークスの大ファンだったのだが、結局ホークスの優勝を見ないままだった。

それから何ヶ月かして、取引先の人が、クモ膜下出血で入院したとの連絡が入った。
彼は、まだ20代だった。
うちの担当からは外れていたものの、ぼくは彼とかなり親しくしていた。
しかし、彼の場合は病気でなったものではなかった。
前の日に、飲んでけんかをしたらしい。
それが元でのクモ膜下出血だった。
もはや、ぼくの頭の中には「クモ膜下=死」という図式が出来上がっていたのだが、その人は一ヶ月ほどで退院したということだった。
後日、会社に復帰した時に、「ご心配かけました」と彼が挨拶に来たことがある。
「今はどう?」
「いや、やはり物忘れがひどくなったようです」
と言っていた。
新たに、ぼくの頭の中に「クモ膜下=物忘れひどい」という図式がインプットされた。
図式を結びつけると、「クモ膜下=物忘れひどい=死」という図式になる。
ということで、ぼくは物忘れというものを非常に恐れるようになった。

それから、1年位経った時に、ある同業者の話を聞いた。
朝、店を開けようとシャッターを上げた瞬間に、「ブチッ」という音がした。
本人は「切れた!」と言って、店の中に入っていった。
その後、意識不明になり、その日の午後に亡くなったという。
ぼくの中に、また図式ができた。
「シャッター=クモ膜下=物忘れひどい=死」

それから、伊藤さんの死である。
以前フジ系で『こんな私に誰がした』というドラマがあったが、これが彼を見た最初である。
その後、たびたび画面でお目にかかることになる。
今でも忘れないのが、『ショムニ』で寺崎部長に食ってかかるシーンだった。
普段は寺崎部長の腰ぎんちゃくである伊藤扮する野々村課長が、ある日ショムニのミスで癌の診断を受けた。
それを真に受けた野々村が、やけになって寺崎に「お前も小さい男だなあ」と悪態をつくのだ。
あの時の、寺崎部長とのやり取りは本当に面白かった。

まだ、40歳か。
惜しい人材を亡くしたものである。
謹んで、ご冥福をお祈りする。


なんとか、ハードディスクの交換は終わった。
別に「やったー!」なんて思わない。
容量さえ考えなかったら、何も変わってない。
ただ、昼寝もせずにやったから、結局は睡眠時間が1時間半だった、というだけのことだ。
眠たい。

昼から銀行に行った。
そういえば、銀行は午前中に済まそう、という計画だった。
それも、寝不足から来る無気力から、もろくも崩れてしまった。

ジーンズがほころんでいる。
「これでいいや」と思って外に出たが、歩いているうちに、さらにひどくなった。
ほころびが太ももの周りを半周している。
一周するのは時間の問題だ。
それは今日かもしれない。
引き返して、履き替えた。

行きはJRを使った。
帰りは歩いて帰った。
天気はよかったようだ。
しかし、空は黄色く見えた。
これもまた寝不足のせいだろう。
そういえば、ジョンレノンの詩だったと思う。
「空が黄色く見えた」というのがあった。
あれは何という歌だったろうか。
たしか「レット・イット・ビー」の中の歌だったと思うが。

歩いて帰る途中、手に何滴かの水がかかった。。
エアコンの水かなと思って周りを見ると、それらしきものもない。
雨かなと思って空を見ると、晴れている。
雲は出ているのだが、青空が透けて見えるほど薄い雲だ。
そのうち、パラパラと降り出した。
しかし、空はさっきと変わらない。
「そうか、狐の嫁入りか。
それで、空が黄色かったのか」
寝不足は、魔物をも信じさせる力がある。

今日のダイエー・西武戦。
北九州市民球場であった。
4回途中から雨が降り出した。
雨脚は見る見る強くなった。
そのうち雷も鳴り出した。
激しい音、鋭い閃光!
窓の外と、テレビの画面が同時に光る。
初めて見る光景だ。
これも魔物の仕業か。

寝不足はさらに祟る。
風呂の中で寝てしまった。
ちょっと目を閉じると眠ってしまう。
ハッと気づいて目を開ける。
時間にしてどのくらいだろうか。
その間いちいち夢を見る。
けっこう長編ものだ。

ここまで書いて限界を知る。
「起きていても、何の役にも立たない男です」
ということで、寝た。
午後11時50分だった。


あー、イライラする。
今日家に帰ってからずっと、以前から計画していたハードディスクの交換を行っている。
実は、手持ちのCDをコンピュータにコピーしていたのだが、いよいよ容量が足りなくなってきた。
まだCDのコピーは半分も終わってないのに、これでは全部収めることができない。
ということで、ハードディスクを換えることにした。
「わざわざ面倒くさい交換とかせんで、増設すればいいのに」、と言う人もいたが、いかんせん使用している機種が省スペース型なので、増設することはできない。
外付けも考えたが、置く場所もない。
そこで、どうせ内蔵型に換えるのなら、いっそ大容量に換えてしまえ、と調子に乗って120GBのハードディスクを買い込んだ。
しかし、容量が大きなせいか、時間がかかる。
フォーマットだけならそこまでかからないのだろうが、このパソコンはWindowsXPにアップグレードしているため、いったんWindows98を入れてから、XPにアップしてやらなければならない。
また、新しいハードディスクの付属のソフトは、XP対応になっていないため、直接ファイルをコピーすることもできない。
データを、CD-Rに保存してからの作業になってしまった。

現在午前8時16分だが、まだ終わってない。
とりあえず、昨日の日記だけは書いておかないとと思い、いったん作業を中断した。
それにしても眠たい。
それもそのはず、1時間半ほどしか寝ていない。
頭は回らないし、指はてきぱきと動かない。
集中力もなくなっている。
目に付くものや、心に浮かんだものに、関心がいってしまう。
「そうだった、コンビニで『天才バカボン』買ったんだ」
そんなことを考えだすと、もはや日記そっちのけで、『天才バカボン』を読んでしまう。
おかげで、たかだか3行ほどを打ち込むのに、かなりの時間を要している。
さて、いったいこの日記は何時になったら終わるんだろう。

そういえば、今日は銀行に行く日だった。
前回の休みが土曜日だったため、今日にずれ込んだんだった。
予定としては、午前中に済ますつもりだが、それもこの日記が終わらないと、始まらない。
銀行から帰ってきたら、今度はアプリケーションのインストールが待っている。
それにしても、かなりの量のアプリケーションがある。
あ、ちゃんとパスワードは保存しておいただろうか。
それよりも、ちゃんと復元できるのだろうか。
何か、不安だ。
困ったなあ。
紙に書いとけばよかった。
今日は本当にやることがたくさんある。
そう思うと、また日記がはかどらなくなる。
とにかく今は、日記のことだけ考えよう。

あ、そういえば・・・。


この日記を書き出して、今日で1年と4ヶ月になる。
熱しやすく熱しやすく冷めやすいぼくとしては、異常な持続力である。
いつか反動がくるだろう。
ぼくは一度休んだりすると、もう二度としたくなくなる性格である。
その日が来ないことを、自ら望んでいる。
しかし、毎日書いていると、たまに何を書いていいのかわからない時があるものだ。
今日がその日である。
夕方5時頃から、何を書こうか悩んでいるのだが、結局この時間まで、今日の日記のテーマは決まらないでいる。

困ったものだ。
思考も肉体と同じで、力むと何も出てこない。
そういう時は、去年の日記を読むというのも一つの打開策である。
と、去年の5月26日の日記を開いてみると、やはりその日はロクなことを書いていない。
『一日中寝て、いらんことを考えていました』だと。
アホか!
ちゃんと、翌年の日記の役に立つようなことを書いておけ。

ところで、この頃の日記は「ですます調」になっている。
今はえらそうに書いているが、この頃はまだウブだったのだ。
まるで小学生の作文である。
ニワトリやアヒルの話なんか、誰も読みたくなかっただろうに。
でも、この頃はまだ身内にしかこの日記を教えてなかったから、こういうのでもよかったのかもしれない。

そういえば、ぼくは学生時代を通じて、作文は得意なほうではなかった。
どうも文章に自信を持てなかったのだ。
というより、文章に興味がなかった、と言ったほうが正しいだろう。
ぼくが文章に興味を持ち出すのは、高校を卒業してから、そう、詩を本格的に書き出した頃からだった。
それと同時に読書癖も始まった。
小説、論文、思想書、哲学書、エッセイなど、ありとあらゆる本を読みまくった。
おそらく、そういう文章から刺激を受けたのだろう。
それから、自分なりに文章を工夫するようになってくる。
たしかに、その頃の日記は、排他的で独りよがりな文章である。
こういうところで、お見せするのも恥ずかしい。
しかし、高校時代の作文と比べると、かなり成長の後がうかがえる。
言葉の使い方が、確実に大人になっているのだ。
そうなると、自分の文章に酔ってくる。
だんだん自信のようなもの出てきて、いろんな人に手紙を出すようになった。
内容はくだらないものばかりで、もらった方も迷惑だっただろうが、しかたない、こちらは酔っていたのだ。

その後、酔いを醒まされる文章に出会う。
23歳の頃に、毎日新聞で『ひと』欄を担当していた、内藤国男という方の本を読んだ時だ。
わかりやすさといい、説得力といい、全然違った。
最初は文章の模倣をしていたのだが、その文章力の差は埋めることは出来なかった。
正直言って、ぼくは文章を書くのが嫌になった。
それから、ぼくは詩のほうに力を入れるようにした。
しかし、これもものにならず。
もはや、この時には詩を書く興味が薄れていたいた。
それから、ホームページを始めるまで、たまに詩を書いていたぐらいで、文章からは遠ざかっていたのである。
だから、この日記を始めて4ヶ月の文章というのは、あの程度でしょう。
ま、今もあまり進歩はないけどね。
今のぼくにあるのは、その日にふと思いついたネタだけです。

さて、作文といえば、ぼくが小学5年か6年の時、こういう作文を見たことがある。
「わたしかたかすかすき。でもさしんかもてない・・・」
実にユニークな文章である。
ぼくがどれだけ努力しようとも、こういう文章は書くことが出来ないだろう。
わかりますか?
ぼくのクラスの男子は全員で、この解読に取り組んだ。
解読できるまで、2~3日要したと思う。
答は、「私はタイガースが好き。でも、写真(ブロマイドだろう)を持ってない。・・・」だった。
実に暇なクラスだった。

それはそうと、今日のテーマがまだ決まらないでいる。
さて、何を書こうか?


あるお客さんから、「ビデオが欲しいんだけど、どのメーカーのにするか迷ってるんです。仕事中なので、そちらに行けそうもない。出来たら説明しに来てくれませんか」と電話をもらったことがある。
さっそくぼくは資料を持って、そのお客さんが勤める会社に行った。
そこでいろいろ話をするうちに、そのお客さんが「ソニーファン」であることがわかった。
つまり、そのお客さんは、ぼくを呼んで、ソニーの良さを確かめたかっただけなのである。
しかし、ぼくは最後まで諦めなかった。
VHSとベータとの違いを説明し、今後はおそらくVHSの時代になるだろうという持論を展開した。
その上で、その当時発売されたばかりの、ビクターの機種(後に名器と謳われた)を薦めた。
1時間近く説得したが、その時は結論が出なかった。
結局、後日店に行って決めるということになった。
何日か後にそのお客さんはやってきた。
そして、「あの後検討したけど、やっぱりソニーにする。いろいろ教えてくれて、ありがとう。勉強になりました」と言って、ソニーを買って帰った。

もちろんそのお客さんも、VHS勝利の時には何も言ってこなかった。
しかし、このお客さんとは何かの縁があったのだろう。
それから何年かして、こんなことがあった。
その頃は、ぼくはビデオ業界から離れ、楽器業界にどっぷり浸かっていた。
楽器というと、主なお客は学生である。
彼らは一様にミュージシャンを目指している。
その中に一人、ぼくが目をかけていた男がいた。
彼はいい感性の持ち主だった。
彼のオリジナル曲を何曲か聴かせてもらったが、荒削りながらそこに彼の才能が垣間見れた。
彼はよく店に遊びに来た。
ある日のこと、「しんたさん、おれ彼女が出来ました」と一人の女の子を連れてきた。
ちょっと気の強そうな顔をしていたが、かわいい子だった。
ところが、彼女はぼくを見るなり、「あのう、しんたさんですか。父からよくうわさを聞いてます」と言った。
「え、お父さんから?」
「はい」
「名前は何と言うんかねえ?」
「○○です」
「○○・・・? うーん、覚えがないねえ」
「以前、しんたさんビデオのコーナーにいたでしょ」
「うん」
「その時、お父さんの会社にビデオを売りに行ったでしょ?」
忘れていた記憶が蘇ってきた。
「ああ、あの時の」
「はい、あの時はお世話になりました。父は、しんたさんが一生懸命説明してくれたと言って、喜んでましたよ」
商売人冥利につきる話である。
嫌なことも多いけど、こういうことがあるから客商売はやめられない。
結局、その後ぼくが会社を辞めたため、そのお父さんとは再会を果たせなかったが、今でも強く印象に残る想い出である。

さて、VHSであるが、その後ぼくの予想通り圧勝した。
過去一度だけテレビであった、映画『LET IT BE』、これをベータで録画した人、今は持ち腐れだろうなあ。

ところで、後の『レーザーディスクvsVHD』の時も、ぼくはレーザーの圧勝を読んでいた。
その当時、スナックに行くとVHDのカラオケをよく見かけた。
それを見るたびに、レーザーに替えたほうがいいよ、と助言していた。
その助言を聞き入れて、レーザーに替えた店もある。
あいかわらずVHDにこだわった店もある。
しかし、結果はご存知のとおり、レーザーの圧勝であった。
VHD店は、「あんたの言うとおり、あの時レーザーに替えとけばよかった」と言っていたが、後の祭りである。

さて、最近の『DVD』であるが、『RAM』になるのか、『-RW』になるのか、『+RW』になるのか、まだまだわからないところである。
メディアを扱っているメーカーさんも、どうなるのかまったく読めないという。
逆に「しんたさんはどう思われますか?」と聞いてくる始末である。
その時、ぼくは笑いながらこう答えている。
「さあ、難しいですねえ。どうなるんでしょうか」


昨日の日記で、ぼくは前の会社に入社した当初、ビデオ部門の担当だったと言ったが、その頃のビデオ業界は、VHSとベータの覇権争いの真っ最中だった。
当時、VHS陣営にはビクター、松下、日立、シャープなど、ベータ陣営にはソニー、東芝、三洋などが、それぞれ参加していた。
こういう、家電業界の争いは、後の『レーザーディスク』vs『VHD』や『8ミリ』vs『VHS-C』、最近の『DVD-RAM』vs『DVD-RW』vs『DVD+RW』という形で継承されていく。

その当時、ぼくはVHSの時代が来る、と読んでいた。
たしかにベータは映りは良かったが、VHSに比べると独りよがりな面が多く、ユーザーのニーズに応えていないように思われた。。

第一に、ベータの操作面は一見して難しく感じられた。
ベータはどちらかというと、男性向きだったようだ。
というより、一般に機会音痴と言われる女性のことを考えてない、としか思えないフェイスをしていた。
それでもいいじゃないか、と思われるかもしれないが、これは「大衆は女性である」という商品開発の基本を無視しているのだ。

第二に、録画時間がわかりにくかった。
VHSのテープには「T120」などと書いてある。
この「120」は標準モードで録画できる分数である。
この理を知っていれば、何分録画できるテープなのかは容易にわかる。
しかし、ベータはそうではなかった。
「L500」「L750」、知らない人がこれを見て、何分録画できるテープかわかるだろうか?
たしかに時間表示は書かれていたが、文字は小さかった。
さらにΒⅠ、ΒⅡ、ΒⅢと3種類も時間が書いている。
これでは、お客は迷うだろう。

第三に録画時間である。
VHSの120分テープの場合、3倍モードで6時間の録画が出来るが、ベータの場合、当時最長の「L750」のテープを使っても、4時間半の録画しか出来なかった。
また、この4時間半というのが不可解な時間であった。
普通のテレビ番組は1時間ものが多いが、この4時間半というのは、どういう番組を意識して決めた時間なのだろうか。
映りの良し悪しを重視する少数のマニアは、時間のことまでは気にしないだろうが、大半の人は番組を重視している。
VHSだと1時間の番組が6本録れるが、ベータだと4本しか録れない上に、30分余ってしまう。
この差は大きかった。

他にもいろいろな要素があったが、お客さんの意見というのはだいたい上に書いているようなものが多かった。
そういう生の声というのは、今後の展開を占う上での大きな判断材料になる。
そのため、ぼくは「これはVHSの勝利になる」と、読んだのである。
専門誌などを読むと、「どうなるVHSvsベータ」などとやっている。
その当時の専門誌の予想は、どちらかというとベータ勝利の意見が多かった。
そういう専門家の人たちが、何を判断基準にしていたのかというと、機能面や映りの良さであった。
つまり彼らはカタログ人間だったのである。
ユーザーの声などはまったく無視の状態だった。

そこで、ぼくはお客さんになるべくVHSを薦めることにした。
しかし、いるんですよ、このカタログ人間が。
「いったい、VHSとベータと、どちらが生き残るんですかねえ。専門家の目から見てどう思いますか?」と聞くので、上記の説明をした上で、「ぼくはVHSの時代になると思います」と言うと、「君は若いなあ。勉強してるのかね。専門誌にはちゃんとベータ勝利と書いているよ」とか「ソニーが負けるはずがないじゃないか!」などと言う。
自分がそう思うのなら、いちいち人の意見なんか聞かないでほしいものである。
しかし、その頃はぼくも若かった。
そこで妥協しないのである。
「そう思うのは勝手ですが、そのうちベータで録画したものは見れなくなりますよ」とやり返していた。
おそらく今なら、そういう読みがあっても、「さあ、難しいですねえ。どうなるんでしょうか」と笑ってごまかすだろう。

大概のお客さんは、「そこまで言うのなら、君を信用してVHSを買うことにしよう」と言ってくれた。
後にVHS勝利が決定的になると、「いや、あの時君の意見に従っといてよかったよ」と言って感謝されたこともある。

中には「君が何と言おうとも、ぼくはソニーを信じる」と言い張り、ソニーのビデオを買う人もいた。
俗に言う「ソニーファン」「ソニー信者」である。
最近はあまり見かけなくなったが、その当時は「ソニーファン」がけっこういた。
何でもソニーなのである。
「じゃあ、冷蔵庫も洗濯機も、すべてソニーにすればいいやん」と思ったものだった。
そんな人は、後で後悔しただろう。
ま、その件については、何も言ってこなかったので、定かではないが。


ぼくは前の会社に11年いたが、そのほとんどを楽器やレコードの販売に費やした。
入社当初はビデオ部門を担当していた。
約半年そこにいたが、楽器部門に欠員が出て、ぼくに白羽の矢が立った。
理由は、ギターが弾けるから、という安易なものだった。
その後、楽器業界にどっぷりと浸かってしまい、結局会社を辞めるまでこの部門にいた。

さて、その間一度も異動がなかったわけではなかった。
都合1年間、ぼくは楽器部門を離れている。
その間何をやっていたのかと言うと、訪問販売である。
最初の訪問販売は、昭和62年2月から3月にかけての2ヶ月間だった。
この時は精鋭部隊として、訪問販売に借り出された。
販売する商品は、当時の花形であったテレビとビデオである。
自分の売り場のことは一切考えなくてもいいから、とにかくテレビとビデオを売ってこい、というものだった。
その頃の店長は、「売り上げさえ上げてくれれば、あとは喫茶店にこもっていようが、パチンコをやろうが、何をやってもかまわない」という思想の持ち主で、そのことをよく朝礼で言っていた。
お言葉に甘えて、ぼくたちはいつも、朝礼が終わると同時にある喫茶店に向かっていた。
その喫茶店は、マンガ喫茶とまでは行かないが、かなりの量のコミックを置いていた。
そこで午前中を過ごし、その後行く宛てのある人はそこに向かい、行く宛てのない人はそこに留まった。
居残り組は、あいかわらずマンガを読んでいる。
一方のお出かけ組はというと、こちらも早々と用を済ませて、この喫茶店に戻って来る。
そしてまたマンガの続きを読んでいる。
この喫茶店は、まさにわが会社の出張所であった。

もちろん、店に来るのはぼくたちだけではなかった。
時折、商売敵も現れた。
そして彼らは、実に卑怯なことをした。
ぼくたちの会社に電話して、「お宅の社員が、毎日喫茶店でサボっていますよ」とチクったのだ。
当然そのことは店長の耳にも入った。
しかし、店長はそのことを咎めなかった。
他の人に、「喫茶店、けっこうじゃないか。息抜きなしに訪販なんかやっとれるか。売り上げも上がってるんだから、いいじゃないか」と言っていたらしい。

しかし、そのことがあってから、午前中はそれまでの喫茶店に集合するのだが、モーニングを食べ終わってからは、場所をかえるようにした。
制服を着ているため、集団だとまずいので、ばらばらに散らばった。
ぼくがよく行ったのは、その喫茶店から10キロほど離れた場所にある、本格的なマンガ喫茶だった。
コミックの数は、前の喫茶店と比べものにならないほど多く、これらの本を全部読むのは、2ヶ月という限られた時間では無理だった。
そこで、ぼくが読んだのは、昔読んだことはあるが、最終回まで読まなかった本だった。
これなら所々のストーリーは知っているので、読むペースが速くなる。
おまけに、そのマンガを通して、それを読んだ時代の想い出も蘇る。
この喫茶店で読んだ大量のマンガにより、想い出が整理できたということは、実に大きなことだった。
そのおかげで、こうして毎日の日記のネタになるのだから。
もし、その喫茶店でマンガを読む時間がなかったとしたら、つまりそういう有効な無駄な時間がなかったとしたら、おそらくこのホームページはなかっただろう。
想い出も、記憶の底に眠ってしまい、一生日の目を見ることがなかっただろう。

さて、その訪販期間中、ぼくはかなりの売り上げを上げた。
しかし、それはお客さんのところに足を運んで、売ったのではなかった。
なぜなら、ぼくはずっとマンガを読んでいたのだから。
では、どうやって売ったのか?
それは、いろんな所にアンテナを張り巡らしていたのである。
訪販組に抜擢された時に、ぼくは友人知人や顧客に電話をかけまくった。
そして、「誰か買う人がおったら紹介して」と言っておいた。
さすがに、買う人はすぐには見つからなかった。
しかし、1ヶ月が過ぎた頃から、だんだん当たりが出てきた。
マンガ喫茶にいる時も、ポケベルは鳴りっぱなしだった。
終わってみると、ぼくは売り上げ2位になっていた。

後日、成功談を聞かせろ、と言ってきた。
「どういう時が、一番きつかったですか?」
マンガばかり読んでいたので、こういう質問にはお答え出来ない。
しかたないので、こう答えておいた。
「はい。午後が一番きつかったです」
「え?それは、どうしてでしょうか?」
「首が痛くなったからです」


幼い頃、ぼくは便秘症だった。
これは決して体質的なものではなくて、ウンチをするのが面倒臭くて、便秘の習慣がついたものだと思う。
便秘になると、ぼくはいつも『サラリン錠』という便秘薬を服用していた。
この薬を飲んでいた理由は、糖衣錠なので飲みやすかったからである。
さて、ある日のこと、いつものように便秘になり、いつものように『サラリン錠』を飲んでいる時のこと、ぼくは何を思ったか、『サラリン錠』を噛み砕いてしまった。
そのとたん、口の中一杯に広がる苦味、この世のものではなかった。
気分が悪くなり、吐いたほどだった。
しかし、それが良かったのか悪かったのか、それ以来ぼくはどんな薬を飲んでも、「苦い!」とは感じなくなった。

ぼくが小学3年の時の話。
夏休みに家族で、宗像の神湊(こうのみなと)という所に、泊りがけで遊びに行ったことがある。
ここは玄界灘に面したところで、海水浴が出来、玄界灘の新鮮な魚を食べられることで有名な場所である。
神湊は、うちから車で30分ほどで行ける近場だが、その当時はうちに車がなかったので、バスや汽車を乗り継いで行かなければならなかった。
しかし、乗り継ぎとなると、連絡の関係もあり、片道2時間以上かかるため、日帰りだとちょっときつい。
ということで、泊りがけということになったのだ。
宿は親の勤めの関係で、八幡製鉄の保養所を利用した。
かつてぼくのうちは、旅行とはまったく縁がないうちだった。
ぼくが小学生の頃に行った旅行は、この小旅行と、同じ3年生の頃に名古屋の叔父の結婚式に行ったくらいしかない。
したがって、あまり旅行慣れしてなかった。
旅行用のタオル、旅行用の石鹸、旅行用の歯磨きセット、すべて真新しいものばかりだ。
この真新しさが悲劇を呼んだ。
夜が明けた頃だった。
母親が、突然「あー!」と大声を出した。
どうしたんだろうと、起きてみると、洗面所のところで立ちすくんでいる。
「どうしたんね?」
「歯磨きと間違えて、ムヒで歯を磨いた」
「ええっ!?」
かなり苦かったようだ。
母は歯を磨こうとして、無意識に使い慣れた容器に手を伸ばしたということだった。
真新しい歯磨き粉は、見慣れない容器に入っているため、潜在意識が判断できなかったのだろう。
その朝、新鮮な魚を使った朝食が出たのだが、味などなかったに違いない。
魚とムヒの混ざった味、想像しただけでも気持ち悪い。

ぼくが19歳の春のことだった。
その頃、ぼくは大学受験が終わり、なんとなくボーっとしていた。
そういう時に、名古屋の叔父がやってきた。
叔父は、当時長距離トラックの運転手をやっており、熊本に荷物を届ける途中に寄ったということだった。
母が「一人で行くと?」と聞いた。
叔父は「そうだけど。あ、しんたも連れて行ってやろうか?」と言った。
受験勉強疲れもあったし、気分転換の意味で、熊本に連れて行ってもらうことにした。
夜中に家を出て、翌朝熊本に着いた。
荷物はドラム缶だった。
トラック一杯に積み込んだドラム缶をそこに降ろし、次に向かったところは大牟田だった。
今度は集荷があるというのだ。
大牟田で積み込んだのは、カーボンだった。
これをトラック一杯に積み込む作業は辛かった。
カーボンはセメント袋のようなものに入っていたが、持ってみると、これが実に持ちにくい。
おまけに雨も降り出したので、手がすべる。
また、カーボンは粉なので、ちょっとした刺激で空中に飛び散る。
そのたびに、黒いカーボンを鼻から吸い込むことになる。
積み込みが終わって鏡を見ると、顔は真っ黒だった。
さらに口の中を見ると、舌も真っ黒になっていた。
工場の人が、風呂に入っていったらいい、と言うので、お言葉に甘えて風呂に入らせてもらうことにした。
顔や手に付いたカーボンは、比較的楽に落ちた。
問題は、舌に付いたカーボンである。
うがいしても、指でこすっても、容易には落ちない。
もちろん、歯磨きなどは持ってきてない。
そこで、石鹸で洗うことにした。
鏡の前で、舌をダラーっと伸ばし、石鹸をつけた。
最初は何も感じなかったが、だんだん苦味が広がってきた。
『サラリン錠』の比ではない。
おまけに、その石鹸は匂いつきの石鹸だったため、その臭いまでが口の中に広がる。
慌てて、口をゆすいだ。
しかし、苦味と石鹸臭は口の中に残ったままだった。
家に帰ってから、歯磨き粉で口の中を洗ったが、容易には取れなかった。
口を閉じると苦味が走り、息をすると石鹸の匂いが漂う。
2,3日この状態が続いた。
今でもその石鹸の匂いがすると、吐き気がする。


ご当地ソングというものがある。
ある一つのストーリーの中に、無理やり地名や縁のものを入れている歌である。
こちら福岡県にもいろいろなご当地ソングがあるが、北九州に限定すると、『無法松の一生』と『花と龍』が有名である。
よく、旅行や出張に行った時、そこの人から「せっかく北九州からお出でになったんだから、『無法松の一生』やって下さいよ」と言われる。
中には「できたら『度胸千両』入りでお願いします」、と注文をつける人もいる。

ぼくは『無法松の一生』を歌って歌えないことはない。
もちろん『度胸千両』抜きでなら、の話であるが。
しかし、せっかく知らない土地に来て、いい気分で酒を飲んでいるのだから、こういう時だけは、北九州から離れたいものである。
そのへんを察して欲しいのだが、「北九州は『無法松』じゃないといかん」、と思っている人がけっこういる。
もしかしたら、こういう人は、北九州の人はみな、『無法松』を毎日歌っていると勘違いしているのではないだろうか?
もしくは、『無法松』を学校で習っていると思っているのではないだろうか?
決してそんなことはない。
ぼくの周りには、『無法松』を知らない人がけっこういるのである。

北九州の人間は『無法松』を歌わないといかん、という人に聞きたいことがある。
もし、それが佐賀の人だったらどうするのだろう。
「佐賀、佐賀・・・。はて、佐賀に有名な歌があっただろうか」
考えても思いつかないから、「じゃあ、長崎の隣だから、『長崎は今日も雨だった』を歌え」、とでも言うのだろうか?
もしくは、福岡の隣だから『炭坑節』を歌え、と言うのだろうか?
それでは佐賀の人に失礼である。
願わくば、佐賀の人と飲む時は、ご当地ソングを無理やり歌わせないようにして欲しいものである。

さて、ご当地ソングといえば、その最たるものは、何と言っても校歌だろう。
その地域に住む住民しか知らない地名や、山や川のオンパレードだ。
例えば、ぼくの行った小学校の校歌に、「鵜ノ巣の池」というのが出てくるが、おそらくその池の存在を知っているのは、その校区に住んでいる人くらいだろう。
ぼくはこの池に行ったこともない。
また、「江川」という川の名前が出てくるが、これは川というよりどぶだ。
このどぶが、さわやかに流れるというから、お笑いであった。
全然生活に密着していない。

その校歌に必ず出てくるのが、その市や町のシンボルである。
ぼくの行った小中高の校歌には、八幡のシンボルである帆柱(皿倉)山が必ず入っていた。
小学校は「描いて清い帆柱や」、中学では「皿倉の峰にも届け」、高校は「帆柱山を背において」だった。
しかし、この歌詞だけを見てもらってもわかるだろうが、ここは別に「帆柱山」でなくともいいわけだ。
例えば、「描いて清いすすきの」でも、「吉原の街にも届け」でも、「中洲の街を背において」でも、別にかまわない。
山は、あくまでもこじつけに過ぎないのだから。

また、中学では「玄界灘」、高校では「洞海湾」なども登場した。
高校の校歌は、今考えるとひどいものであった。
問題の箇所は、「新潮かおる、洞(くき)の海。希望の光、君見ずや」という歌詞にあった。
「洞の海」とは「洞海湾」のことである。
当時、洞海湾は工業排水で汚染されまくり、「魚の住まない、死の海」と、しばしば全国版のニュースでも紹介されている。
その「死の海」の新潮が香るのである。
これは大変なことである。
阿蘇山の火山ガスが発生するようなものである。
付近の住民は鼻を押さえて、直ちに避難しなければならない。
当然、こんな海に希望を見つけることは出来ないだろう。

なぜこんなことになるのか?
それは、ただ意味もなく地名を並べたからである。
おそらく作詞者は、「ほう、そこには『洞の海』というものがあるのか。じゃあ、これも使っちゃえ」と、現地の視察もせずに、安易に詞を書いたのだろう。
その歌詞に、「今は『死の海』と呼ばれている洞海湾だが、みんなの力でそれを希望の光が輝く、美しい海に変えていこう」という前向きなものが見えればまだいいのだが、ただ海の名前を添えているだけだから、そういう希望はまったく見えない。
そこにあるのは、現実との大きなギャップだけであった。

ご当地ソングが悪いとは言わない。
地名、山、川、大いに結構。
しかし、その歌がどんな地名を入れても成り立つ歌なら、そんな歌は作らないほうが賢明だと思う。
どうしても作るのなら、その土地の現実や生活が充分に考慮されなければならないだろう。

ところで、話は元に戻るが、これだけは言っておきたいことがある。
ぼくは、『無法松の一生』は絶対に歌わん!


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