頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2002年08月

この洋楽ベスト20を選曲するに当たって、手持ちのCDを聴きなおしてみた。
どちらかというと、ぼくは洋楽よりも、邦楽のCDのほうを多く持っている。
邦楽は、好きなアーティストのアルバムを全部集めるからだ。
逆に、嫌いなアーティストは、いかにいい歌があろうとも、買う気がしない。
一方、洋楽の場合はそういうことがない。
アーティストよりも、その歌のほうに興味があるからだ。
だから、邦楽のように「あの歌手は好かんけ、聴かんわい」ということがない。
興味の赴くままに、CDを買い揃えていく。
しかし洋楽は、誰が歌っているのか、また曲名すらわからないものが多くある。
そういうわけで、自分の知識だけで買うので、その量も当然少なくなっている。
このベスト20も、自分の知識だけで選んだものである。
当然、選曲に偏りがあるのは否めない。

第15位
『オールド・デキシー・ダウン』ザ・バンド
むかし、何かのドラマでこの歌がかかっていた。
その時、ぼくは「何か聴いたことがあるなあ」と思いながら聴いていた。
それもそのはず、ぼくはこの歌の入ったアルバムを持っていたのだ。
ただ、そのアルバムは、このザ・バンドのものではなく、ボブ・ディランの『偉大なる復活』というアルバムだった。
このアルバムの構成は、ディラン→バンド→ディランというふうになっており、ぼくはこのアルバムを聴く時は、いつもバンドの部分を飛ばして聴いていた。
極端に言えば、ザ・バンドなんてどうでもよかったのだ。
しかし、先に書いたドラマを見て、これはいい歌だと思った。
さっそくバンドのアルバムを買い求めた。
その時期は、ちょうど『ラスト・ワルツ』というアルバムが出た頃だった。

第14位
『アローン・アゲイン』ギルバート・オサリバン
自分でもびっくりしているが、「え、この曲が14位?」という感じである。
とりあえず好きな曲を羅列していって、好きな歌の順に並べていった。
その結果が14位である。
この歌以上に、好きな歌が13曲もある、ということである。
この曲に関する思い出は、以前書いたことがあるので省くことにする。
明日から9月、いよいよ秋になる。
秋はこの歌が似合う季節でもある。

第13位
『Desperado』イーグルス
オリジナルのイーグルスの歌を聴いたのは、5,6年前のことである。
友人がイーグルスのCDを持っていたので、MDに録音してもらった。
その中にこの曲が入っていた。
けだるい曲ではあるが、何か魂が揺すぶられるような感銘を受けた。
この歌は、カーペンターズも歌っているが、なんとなく趣きが違う。
このけだるさは男性の声のほうが、よりいい。
なぜなら、イーグルスのほうが、より「ならず者」臭いからだ。
ちなみに、イーグルスといえば、何といっても『ホテル・カリフォルニア』だが、ぼくはこの歌はあまり好きではない。
というより、いい思い出を持ってないといったほうがいいだろう。
聞いた時代がよくなかった。
その頃ぼくは浪人中で、いろいろ嫌な思いをしていたのだ。

第12位
『ジェラス・ガイ』ジョン・レノン
この曲はアルバム『イマジン』に入っているが、アルバムタイトルにもなっている『イマジン』はあまり好きではない。
もちろん、世間一般では『イマジン』のほうが有名である。
しかし、ぼくはどうも好きになれないのだ。
このアルバムを聴いたのは、このアルバムが発売してから4年後、高校3年の頃である。
それまであまりジョン・レノンには興味がなかった。
ある時、友人がこのアルバムを録音してきてくれた。
「ジョンに興味ないやろうけど、このアルバムはいいけ、聴いてみて」
テープをもらってから、すぐに聴いたわけではなかった。
聴いたのは数日後だった。
重苦しいピアノで始まる『イマジン』から、「こいつアホか」と思った『オー・ヨーコ』まで一気に聴いた。
その中で一番気に入った曲が、この『ジェラス・ガイ』だったわけだ。
「何で、イマジンのほうが名曲と言われるんだろう」という思いにかられたものだった。
この歌を一度聴いて、もう一度聴いて、さらに聴いて、と何度も聴いていくうちに、だんだんこの歌が好きになっていった。
そうなると、テープでしか持ってないのが気に入らない。
さっそくレコードを買い求めた。
家に帰ってから、レコードを開けてみると、一枚の写真が入っていた。
それを見て笑ってしまった。
ぼくは、ポール・マッカートニーの『RAM』のジャケットを知っていたからだ。
それ以来、このいたずら好きのおっさんが好きになった。
さて、歌のほうだが、ぼくは今でもこの歌を、ビートルズ時代を含めたジョンの作品の中で、最高の歌だと思っている。
こんなに素直に心情を語っている歌は他にないだろう。
しかし、その対象がオノ・ヨーコというのもねえ。

おお、もうこんなに書いてしまった。
今日は11位まで書こうと思ったのだが、しかたない、今日はここまでで打ち止めにしておこう。


やっと、この企画を始める気になった。
というより、今日は他のネタを考えつかなかったのだ。
まあ、しばらくこの企画にお付き合い下さい。

第20位
『テネシー・ワルツ』パティ・ペイジ
ぼくは物心ついたときから、この曲をハーモニカで吹いていた。
聴いて覚えたというより、体で覚えた一曲である。
しかし、そうは言いうものの、パティ・ペイジを聴いたのは、ずっと後のことだった。
オールデイズのアルバムを買った時に、この歌も入っていたのだ。
それについての印象は、何もない。

第19位
『春がいっぱい』シャドウズ
高校の頃、春になると、ラジオ等で必ずかかっていた曲だった。
最近はあまり聞くことがなくなったが、こういう名曲はどんどんかけてもらいたいものである。
しかしこの曲、『春がいっぱい』というタイトルなのだが、どういうわけか、ぼくの持っているこの曲のイメージは、曇天なのだ。
ちょうど曇った日に、由布院の街並みを歩くようなイメージなのである。
なぜそういうイメージを持っているのかはわからないが。

第18位
『歌にたくして』ジム・クロウチ
高校生の頃、FM放送を聴いている時に、ちょっと印象に残る歌がかかっていた。
アンディ・ウィリアムスの歌う『歌にたくして』だった。
その時DJがこの歌の説明をしていたのだが、ジム・クロウチという聞いたことのない名前の人がオリジナルを歌っているということだった。
その人は、1973年に飛行機事故で死亡したということも、その時に聞いた。
さっそくぼくはレコード店に行って、『美しすぎる遺作』というアルバムを買い求めた。
アンディ・ウィリアムスのように、抜けるような声ではなく、鼻にかかった粘りのある声だった。
その声が、この歌に実にマッチしている。
アコースティックギターで始まるイントロが、すんなりと入ってくる。
これがまたいい。

第17位
『煙が目にしみる』ザ・プラターズ
この曲は、スタンダードナンバーのアルバムで知った曲である。
インストルメントばかりで聴いていたので、プラターズ版を聴いた時には、ちょっとした驚きがあった。
初めてプラターズ版を聴いたのは、映画『オールウエイズ』を見た時だった。
『ゴースト』の元になったような映画の中に、頻繁にこの歌が流れていた。
「え、この曲、歌詞があったんか」と思い、映画はそっちのけで、歌ばかり聴いていたのを覚えている。

第16位
『スタンド・バイ・ミー』ベン・E・キング
この歌もオリジナルを聴いたのは、ずっと後のことである。
初めて耳にしたのは、ジョン・レノンが歌ったものだった。
『ロックン・ロール』というアルバムが発売された頃、ラジオではこの曲と『ビー・バップ・ルーラ』がよくかかっていた。
「ぜひオリジナルを聴いてみたいものだ」と思っていたが、なかなかその望みは叶えられなかった。
当時のラジオ番組は洋楽全盛であったにもかかわらず、新曲を競ってかけていたので、オールデイズなどの特集を組んでいるような番組はなかった。
レコードも探してみたのだが、どこを探しても、ベン・E・キングという歌手のレコードは置いてなかった。
レコードの時代が終わり、CDの時代が到来しても、しばらくベン・E・キングなる人の『スタンド・バイ・ミー』はCD化されなかった。
ようやくCD化されたのが、例の映画『スタンド・バイ・ミー』のサントラ盤であった。
「ああ、こんな感じの歌だったのか」と何度も聴いているうちに、好きになっていった。
この歌の歌詞は、実に単純なものである。
要は、「どんなことがあっても、あんたにそばにいてほしい」、というのである。
今考えたら、介護の歌でもあるわけだ。
こういう単純な詩は、単純な演奏に乗ると、妙に輝きを増してくる。
ちなみに、この歌は、かつてぼくが歌える数少ない洋楽の一つだった。
カラオケでも何度か歌ったことがある。
しかし、最近は歌ってないので、舌が回らないと思う。


「君がほしい」(1975・8・29)

朝焼けが差し込み 今日の運命を決める朝に
灰色がかった空に 薄く日が差す昼に
カラスが鳴き叫び こうもりが群がる夜に
君がほしい

みんなが美しいと言う花に そっぽを向く時
みんなが素晴らしいと言う 風に向かって歩く時
みんなが この時間がにせものだと思う時
君がほしい

 組み合った手は すべてを引きつけ
 その中に君がいることも たしかだろう
 君にすべてを向けたい だけど心は遠くに
 君がほしい 君がほしい 君がほしい

さっきからの夜が 影を映し出す
そこで君が 今夜のありかを確かめる
「ここから先は もう何も見えないみたい」
君がほしい

草むらの陰に隠れ じっと息を止めると
どこからともなく 光の声がする
「話が違うじゃないの あんたうそつきね」
君がほしい

 組み合った手は すべてを引きつけ
 その中に君がいることも たしかだろう
 君にすべてを向けたい だけど心は遠くに
 君がほしい 君がほしい 君がほしい


高校3年の時に作った詩だ。
この頃、ぼくは深い恋をしていた。
その人とは結ばれないと、本能的にはわかっていたのだが、それでも彼女に対する激しい感情は抑えることが出来なかった。
その感情が、詩となり、歌になったと言っても過言ではない。
結局、ぼくはその人のことを、高校1年の時から8年間思い続けた。
途中、他に好きになった人がいないではないが、その人への想いには勝てなかった。
不器用なぼくのことである。
その人とは、もちろん片思いのままで終わった。
終わったと自覚したのは、その人が結婚したというのを聞いた時だった。
想っては諦め、諦めては想い、の8年間だった。
その8年間の恋を、ぼくは次の詩で締めくくった。


「思い出に恋をして」(1981)

メルヘンの世界に恋しては
ため息をつきながら扉を右へ
行き着くところもなくただひたすら
影が見える公園へと歩いて

帽子をかぶった小さな子供たち
楽しそうに何かささやいて
ひとつふたつパラソル振って
空の中へ向かっていく

明日は晴れるといいのにね
小さな雲に写った夕焼けが
君たちのしぐさを見守っているよ
そのうちにパラソルも消えて

悲しいのは今じゃない
思い出にこだわるぼくなんだ
気がついてみると君を忘れて
ただつまらぬ思い出に恋をして


また、数年後、その8年間を振り返ってもみた。


「プラトニック」(1986)

今 君がどこにいて何をしてるかなんて
ぼくには関心ないことなんだよ
もっと大切なことは 君を心の中から
離したくない それだけなんだよ

 いつも、君はぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早くぼくの前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね

もう 時を急ぐことはない
ぼくは 時を超えているんだから
今 君がどんなに変わっていても
吹きすぎる風は ぼくにやさしい

 いつも、君はぼくの中にいる
 もっと、素敵な笑顔見せてくれ
 早く、もっと早くぼくの前に
 明るい風を吹かせてくれ、いいね


悲しいものである。
人に恋をするということは、病気になるということだ、とぼくはこの詩を書いた時につくづく思った。
まあ、病気ではないにしろ、まともな精神状態でないことはたしかだ。
片思いでさえ、こんなふうなのだから、相思相愛であったとしたら、かなり重症である。
それは目を見たらわかる。
何かトロンとしているものだ。
自分を見失っている証拠だろう。

以前、ある人に彼女の話をした時、「結局、おまえは今のだんなに負けたんだな」と言われた。
しかし、ぼくが好きだということが、その人にうまく伝わってないのに、「だんなに負けた」もないものだ。
そういえば、よく恋は勝ち取るものだと言うが、ぼくはそれは間違っていると思う。
いったい何を基準に恋の成就と言うのだろう。
セックスまで至ることが成就なのか?
結婚に至ることが成就なのか?
心中することが成就なのか?
どうもはっきりしない。
基準のはっきりしないものに、勝ち負けなんかあるはずないじゃないか。
だいたい、病気の度合いを競って、何になると言うのだろう。
どんなに深い恋でも、いつかは消え去ってしまうものだ。
そんな一過性の病気のようなものに、優劣をつけること自体おかしい。
つまり、恋愛に勝者なし、ということである。

ああ、ぼくは恋愛の勝者を求めていたのかなあ。
であれば、片思いより、そちらのほうが悲しい。


ジャブ
-攻撃の突破口を開くため、あるいは敵の出足を止めるため、左パンチを小刻みに打つこと。その際ひじを、左のわき腹の下から離さぬ心がまえで、やや内側を狙い、えぐりこむように打つべし。正確なジャブ3発に続く右パンチは、その威力を3倍にするものなり-

「あしたのジョー」ファンなら、もちろん上の文句を知っているに違いない。
丹下段平が、鑑別所にいる矢吹丈に宛てた、ハガキによるボクシングの通信教育第一弾「あしたのために その一」である。
「打つベーし、打つベーし、打つベーし」と言って、鑑別所のボスであった西を殴る場面は、実に痛快だった。

なぜまた「あしたのジョー」かというと、実はぼくは数週間前から、インターネットでアニメ「あしたのジョー」を見ているのだ。
ぼくは、「あしたのジョー」はマンガでは何度も読んだことがあるのだが、アニメは1度しか見たことがない。
それもリアルタイムに見ていた。
中学生の頃だったから、もはや記憶は薄れている。
しかも、当時はビデオなどなかったので、全部見たわけではない。
あの力石徹との闘いで、ジョーが力石からアッパーカットを食らい敗北したシーン、またその後の、あまりにも有名な力石との握手シーンを見逃している。
あの力石の倒れるシーンは、友だちの演技でしか見たことがない。
いつか全編通して見たいと思っていたのだが、ビデオやLDで全巻揃えるのは、経済的に無理があった。

ところが、最近「ジョー」をインターネットでやっているという情報を得、さっそくそこの会員になった。
そういうわけで、毎日何話かずつ「ジョー」を見ているのだ。

アニメ版とはいえ、セリフはほとんどマンガといっしょである。
「あしたのジョー」というマンガは、少年誌に掲載されていたわりには、言葉が難しく、また哲学的なことを書いた場所も多々見受けられる。
それでも、多くのバカ少年に受けていたのは、その奥に当時の風潮であった自由への憧れがあったからなのかもしれない。
何者にも縛られることなく、ただ己の本能の赴くままに突っ走って行くジョーの姿に感銘を受けたのだろう。
その後、ぼくは吉田拓郎という人に出会うのだが、拓郎にも同じような感銘を受けたのを覚えている。
ぼくが拓郎を好きになったのは、彼の中に「あしたのジョー」を見たからかもしれない。

さて、ジョーには「不可能を可能にする、天性の野生児」という形容があるが、あの言葉が最近ようやくわかってきた。
ジョーを解くキーワードの一つに、「完全燃焼」という言葉がある。
結局ジョーは最後に「真っ白な灰」になるのであるが、彼にはその真っ白になるための起爆剤が必要だった。
その起爆剤こそが、力石であり、カーロスであり、金竜飛であり、ホセ・メンドーサだった。
最終的に彼は、勝ちへの執念より、「完全燃焼」を選んだ。
「完全燃焼」するために、どうしても必要なものがある。
それは集中力である。
人間の持つ集中力というのは、どんな不可能でも可能にできるのである。
それは、数学が苦手だったぼくが、九大生でも解けんと言われた問題を解いたこと、また初めて卓球をした時、卓球部の人間に勝ったことで経験している。
とにかく、あの時は我ながら凄い集中力が出ていたと思う。
何か普通と違うのである。
眉間から、それまでに味わったこともない不思議な気が出て、体がフワフワしていたのを覚えている。
おそらく、ジョーで言う「完全燃焼」というのも、こんな感じではないだろうか。
そういう状態の時、人は不可能を可能に出来る。
ジョーという人は、それを人為ではなく、本能で実現した人である。

ぼくは今、集中力という観点から「あしたのジョー」を見ている。
そういう目で人生を見るのも、また楽しいものである。
信長も、武蔵も、きっと集中力の優れた人だったのだろう。
では、その集中力を高める方法はあるのだろうか?
答は「イエス」である。
ではどうやって、集中力を高めるのか?
座禅を組むのがいいのか?
念仏を唱えるのがいいのか?
滝に打たれるのがいいのか?
断食すべきなのか?
たしかにそういう方法もあるだろう。
しかし、そんな悠長なことをしていたら、とっさの時に何も出来ない。
すべては王陽明の言う「事上磨錬」
つまり、実践で鍛えていくのだ。
そして、その時の心構えこそが、「えぐりこむように、打つべし」である。


最近、休みが取れないでいる。
基本的に火曜日と金曜日が休みなのだが、人員削減の結果、どうもローテーションがうまくいかない。
先週の金曜日は商品の入荷日のため午前中出勤になった。
今日は今日で、昼から会議だった。
昔は休みも取らずに頑張れたのだが、40歳を超えたころから、これが苦痛になった。
肉体的には別に何ということはない。
ただ寝不足が辛い、ということだけである。
問題は精神的なものにある。
目が覚めてから、「今日は休みだ」と思うのと、「今日も仕事だ」と思うのは、全然違う。
雨が降っていても「休みだ」と思うのは、晴れているがごとく感じる。
逆に晴れていても「仕事だ」と思うのは、どんよりと雲が垂れ下がったように感じる。
まあ、何にしろ、今まであった「日常」というものを崩されるということが、こんなにも苦痛なものなのか、と思い知らされる日々である。

愚痴はここまでにしておこう。
今日のテーマは、今年の1月6日の日記に、店の屋上で血を流して倒れていたおっさんのことを書いたが、その続編である。
その休日出勤となった先週の金曜日。
午前11時頃だった。
9時前に出勤していたぼくは、ようやく検品作業を終え、家に帰ろうとした時だった。
一人の品のいい年配の男の人が「店長さんいますか」と言って、事務所に入ってきた。
ぼくは店内放送で店長を呼んだ。
店長とその男性は、倉庫でしばらく話をしていたが、「その件は私は知りません」と言う店長の声が聞こえた。
そして店長は「しんたさん」とぼくを呼んだ。
「1月に屋上で人が倒れとった話を知っとるかねえ」
「ああ、知ってますよ」
「誰が担当したんかねえ」
「一応、第一発見者は、ぼくということになっていますけど」
「ちょうどよかった。この方が話があるらしいよ」
そう言って店長はその場を離れた。
前にも話したが、店長はこの8月に転勤したばかりで、そんな事件があったことは知らない。

さっそくその男性は、ぼくに名刺を見せた。
名刺に書いてある社名では、その仕事の内容がわからなかったが、その男性の説明で、興信所みたいな会社ということがわかった。
その人は、倒れた男性の調査をしにきたのだ。
その人が調査を始める前に、ぼくは「あの人どうなったんですか?」と尋ねた。
「救急車で病院に運ばれた後、しばらく意識があったんですが、その後意識がなくなって、植物状態になりました。
そして先々月、6月に急性肺炎で亡くなりました」
「ああ、亡くなったんですか」
調査が始まった。
「そのときの状況を教えて下さい」
ぼくは、あの日の日記に書いていたことを、思い出しながら言った。
「倒れていたのはどこですか?」
ぼくは屋上までその人を連れて行き、その場所を教えた。
「どこに血が流れていたのですか?」
「この辺一帯です」
「小便をしていたらしいですね?」
「それはこの壁です」
「吐いた跡もあったとか」
「うーん、吐いてたのは覚えてますけど、場所まではよく覚えていませんねえ」
20分ほど彼はぼくに質問したのだが、変に吐いたことに執着しているようだった。
「飲んでたんですか?」
「さあ、どうだったか」
後で思い出したのだが、そのときの状況は、この日記に詳しく書いていたのだった。
そう、おっさんは酒気帯び運転で店まで来ていたのだ。
あいまいな説明をするよりも、このサイトを教えてやればよかった。

そういえば、死んだおっさんには娘がいた。
おそらく、おっさんが死んだので保険金を請求したのだろうが、現金なものである。
この親子は絶縁状態と言えるほど、仲が悪かったらしい。
警察が身元を確認するために娘を呼んだ時も、娘は行くのを拒んだという。
怪我をすると他人で、死ぬと親子か。
世知辛い世の中である。

ぼくはこの調査のおかげで、家に帰り着いたのは、午後1時を過ぎていた。
仕事中なら、別に1時間や2時間は苦にならない。
しかし、休みの日の1時間は貴重である。
以前はそこまで時間には執着しなかったのだが。
そう思うようになったのは、仕事のために休日を利用しなくてはならなくなったからだ。
この無駄になった時間を、娘に請求しようかなあ。


今日は、月曜日ということもあり商品の入荷が少なかった。
また、昨日で売出しが終わったため、午前中からわりと暇だった。
午後になってからも状況はあまり変わらず、「さてちょっと早いけど、食事にでも行こうか」と思っていたところ、例の万引きじいさんが来たとの情報が入った。
店の外にあるベンチに座って、こちらをしきりに窺っている。
隙あらば、ということだったんだろう。
ぼくは、わざとじいさんの目に付くところに立っていた。
じいさんは、ぼくに気づくと慌てて下を向いた。
じいさんを牽制した後で、ぼくは、じいさんが立ち寄りそうな売場に声をかけ、警戒するように言った。

それから一時してからのことだった。
一通のメールが、ぼくの携帯電話に入った。
着信音で、そのメールが、ホークスTOWNからのメールであることがわかった。
「あれ? 今日はデーゲームやったかのう」と思いながらメールを開いてみると、そこにはショッキングな文字が躍っていた。
『秋山幸二引退表明』
ぼくは7月頃から、なんとなくそんな気がしていた。
以前の秋山と何か違う。
打球も伸びないし、守備にも精彩がない。
これはシーズン後の引退もありえるなあ、と思っていたところだった。
ああ、ついに引退か。

夕方のローカルニュースは、どのチャンネルを回しても「秋山引退」一色だった。
王監督のコメント、選手のコメント、秋山のお母さんのコメント、街の声などなど。
あのNHKでさえ、時間を割いて秋山の特集をやっていた。
仮に主砲小久保が、今やめたとしても、ここまで大きく扱ってはくれないだろう。
それだけ、秋山の業績は大きかったと言える。
たしかに西武から移籍してきた当初は、覇気を感じず、だらしなく映っていたものだった。
しかし、年を追うにつれ、秋山はチームに、いや九州になくてはならない存在になっていった。
3年前、西武の松坂から、顔面にデッドボールを受け骨折した時だって、翌日彼はベンチに入っていた。
われわれファンとしては、それだけでもありがたかった。
彼の記録もさることながら、それ以上に存在感のある選手だったと言えるだろう。

ところで、ぼくが秋山のことを思う時、どうしても思い浮かぶ人がいる。
それは、かつて史上最強のチームと言われた西鉄ライオンズの主力打者、大下弘である。
秋山と大下、この二人の選手はよく似ている。
どちらもホームランバッターである。
どちらも存在感のある選手である。
また、どちらも全国区の選手になった後に、この福岡の地にやってきて、チームの黄金期作りに力を尽くした選手である。
そして、チームの黄金期が去った後に、引退した選手である。
(ぼくとてホークスはこれからのチームだと思う。しかし、今年の戦い方を見た限りでは、一時代が終わったと思わざるを得ないだろう)

秋山はこれからどうするのだろうか?
本人は未定だと言っていた。
まあ、あれだけの選手だから、いろいろ声もかかるだろうとは思う。
ただ間違っても、解説だけはしないでほしい。
無駄口を叩かない人には、解説者は勤まらないのだから。
まだまだマスターズリーグに行くには早すぎる。
ぼくとしては、ダイエーに残って、次の黄金期を作る後進を育ててもらいたいと思うのだが。


ぼくは何をやらしても不器用な男である。
先日話した、図画にしろ工作にしろ、まったく駄目である。
字も生まれつきではないかと思えるほど下手で、長崎屋にいた頃にDMの宛名書きをしたことがあるのだが、上司がぼくの字を見て呆れてしまい、「しんたはもういいから、売場に戻って」と言われたこともある。

不器用さ、これは人生においても言える。
まず、目上に対しての付き合いが下手である。
前の会社にいた時、人事部長に言われたことがある。
「あんたは世渡りが下手やねえ。もう少し目上の人との付き合いをうまくせんとね」
ぼくも、ここで「はい」とか「気をつけます」とか返事をしておけばよいものを、「気が合わんのやけ、しょうがないでしょう」と言ってしまった。
その時の人事部長の不愉快な顔を今でも忘れない。

中にはそんなぼくを理解してくれる人もいる。
しかし、大半の上司はぼくを嫌っていた。
それも徹底的に。
何度「しんたを辞めさせろ」と言われたかわからない。
それでもぼくは、そんなことに頓着せず、平気で上司の気に障ることばかり言っていた。
お中元やお歳暮をあげるのはもちろん、暑中見舞いや年賀状すら出したことがない。
それでも何とか人並みに昇進して行ったのは、運の部分が大きく作用していると思われる。
なにせ、姓名判断上ぼくの名前は「実力派」の暗示があるのだから。(笑)

さて、ぼくにはさらに不器用なことがある。
それは恋愛である。
わりと女性とは頓着なくしゃべるほうであるが、いざ好きな人の前に出ると、うまく自分を表現できない。

20歳の頃に、同じバイト先の年上の人を好きになったことがある。
バイトの先輩から「押しの一手で、どんな女でも落ちる」と言われて奮い立ち、バイト帰りに告白を決行した。
彼女が前を歩いていた。
ぼくはダッシュで追いかけていき、彼女の肩をドンと押した。
そして「ねえ、付き合って」と言った。
当然断られた。
そのことを先輩に言うと、「あほか、おまえは」と嘲笑われた。

むかし、友人が気を利かして、当時ぼくが好きだった人といっしょに飲める場をセッティングしてくれたことがあるのだが、そんな時に限ってぼくは無口になってしまう。
ぼくは彼女と目を合わせることもなく、「ああ、頭が痛い」と言ったっきり、黙りこくってしまった。
その後も何度かチャンスがあったが、わけのわからない行動に出たりして、結局彼女とは付き合うこともなく終わってしまった。

ぼくは、河島英五の「時代おくれ」という歌が好きである。
「不器用だけれど 白けずに / 純粋だけど 野暮じゃなく」というフレーズが特に好きである。
この歌を聴くと、「不器用なりに、かっこよく生きてやろうじゃないか」という気持ちになる。
そういう気持ちが、このサイトを始めた動機でもある。
まあ、こういう不器用男ですけど、末永くご愛顧下さい。
(ケッ、上手く言えんわい)


十数年前、「嫌煙権」という言葉が世の中にお目見えした頃のことだ。
当時ぼくはJRで通勤していた。
電車内での喫煙は、まだ普通に行われていて、世間もそれほどやかましくは言ってなかった。

ある日の会社帰り、ぼくは小倉駅で時間待ちしていた電車に乗った。
発車時刻までまだ時間がある。
乗っている人もまばらだったので、ぼくはタバコを吸い始めた。
半分くらい吸い終えた時だった。
けっこう離れた席に座っていた20代くらいの女性がぼくのところにやってきて、「すいません。タバコをやめてもらえませんか」と言った。
ぼくが「ああ、嫌煙権ですか?」と聞くと、その女性は「いや、そんなんじゃないんですけど、私タバコの煙がだめなんです」と言った。
「わかりました」とぼくは言い、タバコの火を消した。

しばらくして、発車時刻も迫り、だんだん人が多くなってきた。
すると、どこからともなくタバコの臭いがしてきた。
誰が吸っているのかと思い、顔を上げて見回すと、ぼくに意見してきた嫌煙権女のすぐそばで、強面のおっさんがタバコを吸っている。
あの女どうするかなと思って見ていると、意見するでもなく、黙って本を読んでいる。
「おいおい、タバコの煙が死ぬほど嫌だったんじゃないのか。それとも何か。ぼくのタバコの煙はだめで、おっさんの煙ならいいとでもいうのか。確かに相手は強面だが、あんたは人を選ぶのか。自分の主張を貫けないような嫌煙権ならやめてしまえ」
と、ぼくはその時思った。

その後時代は進み、現在我々喫煙家は、実に肩身の狭い思いをしている。
ファミレスの喫煙席は、いつも満員だ。
そのため、禁煙席に回される。
電車や飛行機の中では吸ってはいけない。
駅では灰皿をホームの隅っこに置かれる。
そこで吸っていても白い目で見られる。

以前、ホームの隅っこでタバコを吸っている時、ぼくのいる位置から5メートルほど離れたところに、マスクをしたばあさんがいて、迷惑そうな顔をしてこちらを睨んでいる。
そしてわざと咳払いを繰り返している。
調べてみると、ぼくのほうが風上で、煙がばあさんのほうに流れて行っているのがわかった。
しかし、いくら煙が流れて行こうとも、ぼくはちゃんと所定の場所で吸っているのだ。
ここ以外のどこで吸えと言うのだ。
嫌なら、ばあさんのほうが場所を移ればいいじゃないか。
あんたの体臭や、膏薬の臭いほうが、よっぽど迷惑だわい。

よく「あなたの吐く煙が、私の健康を害す」と言うが、こちらにも言い分がある。
「あなたたちを気遣ってタバコを我慢しなければならない。そのストレスが、私の健康を害す」
こう言うと、喫煙家の勝手な言い分だと言われるが、元はと言えば、そちらの「私が迷惑しなければ、あんたのことは知ったこっちゃない」という身勝手さから始まったものじゃないか。
本当の愛煙家といものは、周りの人を気遣い、吸う場所も充分にわきまえている。
あたりかまわず吸っている、カッコつけの兄ちゃんたちといっしょにしないでほしいものだ。

さて、タバコの話は以前にもしたことがある。
では、なぜこの話をまたするのか。
それは今月の頭にさかのぼる。
実は店長が替わったのだ。
以前の店長は喫煙家だったが、今度の店長はまったくタバコを吸わない。
その店長の赴任第一声は、「タバコは体に悪い」だった。

その後彼は、勝手に禁煙タイムを作り、喫煙場所まで決めてしまった。
こちらは、吸えないわけではないから別にいいやと思っていたのだが、最近になって、所定の場所で吸っていてさえも、変な目で見られるようになった。
この視線を感じるようになって、ぼくは自分の店でタバコを買うのをやめた。
先月までは、タバコをひと月分買いだめしていたのだが、このことがあってから、「売り上げ協力して歓迎されない店で、誰が買うか!」という気分になったのだ。
とにかく、タバコを吸う人を悪人を見るような目で見ることはやめてほしいものだ。

嫌煙権というものを許すのなら、喫煙権というのも認めるべきである。
もう、嫌煙家の言いなりにはならないぞ!


今日は処暑、暦どおり暑さも一段落したようである。
昼間、日差しは強かったものの、なんとなく涼しく、物悲しさを感じたものだった。

ところで、そろそろ夏休みも終わりである。
先日ニュースで、佐賀の何とかいう分校の、始業式の風景を映していた。
九州にしては、えらく早い始業式である。
この分校は冬休みが多くあるのだろうか。
それとも時代を先取りして、秋休みを設定しているのだろうか。
「この時期に始業式か。宿題する暇ないやん」などと思いながら、ニュースを見ていた。

小学生の頃は、21日の登校日になると、「今日から毎日4日分の宿題をやっても充分に間に合う」と思っていた。
それが24日、つまり1週間前になると、「今日から毎日5日分の宿題をやれば間に合う」と思うようになる。
そう、21日から24日まで何もやっていないのである。
そういう状態で、夏休みが終わる3日前まで過ごしていた。
ということで、29日ともなれば地獄だった。
早々と宿題を終えた子が遊びにくるが、遊べない。
伯母は、この時期になると、よく「アリとキリギリス」の話を言って聞かせてた。
おかげで、ぼくは「アリとキリギリス」の話が大嫌いである。

ぼくが夏休みの宿題をぎりぎりまでしなかったのは、早くも小学1年の時からである。
夏休みの宿題帳であった「夏休みの友」というのは、その頃同居していた厳しい伯母の指導の下、なんとか計画通りにやっていた。
しかし、絵日記のほうを怠っていた。
これが難物であった。
何とか覚えているのは、海水浴に行ったことくらいで、後は代わり映えのしない毎日だったので、これをどうまとめていくのかが、大きな課題となった。
結局、代わり映えのしない毎日を一括して描くものだから、代わり映えのしない絵日記になってしまった。

その頃、どういうことを絵日記に書いていたかを思い出しているのだが、思い出せないでいる。
あまり印象に残ってないから、きっと今の日記と同じで、つまらないことをうだうだと書いていたのだろう。

その「うだうだ」の中で、ひとつだけ鮮明に覚えているものがある。
それはゴミ出しの風景である。
今ゴミははゴミ袋に入れて所定の場所に出すのだが、当時はポリのゴミ箱をそのまま出していた。
収集車が来るのは、午前9時頃だった。
朝ごはんを食べた後に、慌ててゴミを持って行った。
これは今でもそうだが、北九州市のゴミ収集車は「乙女の祈り」のオルゴールを鳴らしながらやってくる。
爽やかな朝に「乙女の祈り」のオルゴール、やってくるのはゴミ収集車、不釣合いな組み合わせだが、これが妙にマッチしていた。
その印象を絵日記に書いたのだった。

絵日記といえば、このサイトを始めるにあたって、いっそ日記を絵日記にしようかと思ったことがある。
しかし、それはやめた。
なぜなら、ぼくは絵が下手だからである。
だいたいぼくは、図画工作が苦手な人間である。
とは言いながらも、小学2年生の頃まで、そう絵日記をつけていた頃までは、通信簿の点はまずまずだった。
粘土細工などは、学校の代表として、区の大会に出たこともある。

それがどうして苦手になったのか。
2年生の頃、図画の時間に、運動会の画を描けという宿題が出た。
そこでぼくは、かけっこの画を描いたのだが、先生が「しんた君、これはかけっこで走っている人が転んだ画かねえ」と言った。
「いや、走っている画やけど」
「私には転んでいるように見えるんやけど、みんなはどう思う?」
すると、みんな一斉に「こけてます」と言った。
確かにその画は3次元的な表現ができていなかった。
見ようによっては「こけている」ように見える。
しかし、精一杯描いたつもりだった。
それをけなされたので、へそを曲げたのである。
それ以来、ぼくは画を描くのが、いや図画工作が嫌いになったのだ。

しかし、そうは言ってもリクエストでもあれば・・・
いや、やっぱり止めときます。


一昨日、以前から書きたかった「万引き」の話を書き終え、一安心していたのだが、今日また「万引き」について書かなければならなくなった。

ここ最近、一人のじいさんが頻繁に現れるようになった。
そのじいさんは、かつて店に来てはカラオケテープや工具、はては老眼鏡まで万引きしていたじいさんである。

何年か前に、一度このじいさんを捕まえたことがある。
ぼくがいるのに気づかず、じいさんはカラオケテープを2本、ズボンのうしろポケットに入れた。
そして、そのままて外に出たのだ。
ぼくは、追いかけて行って「ちょっとすいません」と言った。
じいさんは「はっ!」と驚いたようだった。
「そのまま動かんで下さい」と言い、じいさんのうしろポケットから、カラオケテープを取り出した。
「これ、まだ会計がすんでないですよね」と言うと、じいさんはうつろな目をして、ぼそぼそとわけのわからないことを言い出した。
「こちらに来て下さい」と、ぼくはじいさんを事務所まで連れて行った。

事務所でもじいさんは、相変わらずわけのわからないことを言っている。
しかたがないので、店長は警察を呼んだ。
警察が来ると、じいさんは急にぼけたふりをしだした。
警察が「おじいさん、名前は」などといろいろ聞き出していくうちに、このじいさんが何度も警察に連行されていることが判明した。
万引きどころか、神社のお賽銭まで拝借していたという。

あれからしばらくじいさんの顔を見なかったのだが、1ヶ月ほど前から、また現れるようになったわけである。
従業員はもちろんじいさんの顔を知っているので、じいさんがやってくると従業員同士連絡を取り合い、非常線を張った。
じいさんは、ぼくらが見張っているのに気づくと、すぐに外に出た。
そしてしばらくすると、また店に入ってくる。
何度かこちらの隙を狙っているが、だめだと悟ると、その日はすごすごと帰って行く。
何度かそういうことがあった。

そして今日、ぼくたちの隙を突いて、ついにやったのだ。
しかし、悪いことは出来ないものである。
うちの女子従業員が、しっかりその現場を見ていた。
ぼくが事務所から帰ってくる途中に、「しんたさーん」と呼ぶ声がする。
声のするほうを見てみると、その子が万引きのサインを出した。
「誰?」
「じいちゃんです」
ぼくは追いかけて行った。
店の外に出ると、じいさんはベンチに腰掛けていた。
何気なくじいさんの横に行ってみると、じいさんのポケットからカラオケテープが見えていた。
ぼくは「すいません」と言って、じいさんのポケットからテープを取り出し、「これは何ですか」と聞いた。
じいさんは「ああ、これを買おうかどうしようか迷っとった」などと、またしてもわけのわからないことを言った。
「お客さんは、買おうかどうしようかと迷ったら、店の外に商品を持って出るんですか」
「ははは、そりゃおかしいなあ」
「とにかく、こちらに来て下さい」と、事務所に引っ張っていた。

事務所には店長代理がいたのだが、じいさんの顔を見るなり、「また、あんたね」と呆れ顔で言った。
代理がいろいろとじいさんに聞きただしている間に、ぼくは警察に連絡した。
「はい、警察です」
「○○店ですが、万引きなんですけど」
「お待ち下さい」
担当の署員が出た。
「あ、○○店です。また万引きなんですが、常習者なのでお願いします」
「常習者? Hさんですか?」
ぼくは噴出しそうになった。
Hさんとは、この日記に何度も登場している、酔っ払いのおいちゃんのことである。
警察も、酔っ払いおいちゃんにはいろいろ迷惑しているので、相手にしたくなかったのだろう。
「いえ、Hさんじゃありません。お年寄りですけど」
「70歳くらいの人ですか」
「はい」
「ああ、そうですか」
心当たりがあるようだった。

しばらくして、警察官がやってきた。
「名前は?」
「○○です」
「生年月日は?」
「大正○年・・・です」
「住所は?」
「ああ、わかりません」
「わかりません? あんた、自分の住所がわからんとね」
「引っ越したもんですから」
「じゃあ、電話番号は?」
「わかりません」
あとは何を聞いても「わかりません」である。
警察官はムッとした顔をして、「じゃあ、わかるまで警察におってもらおう」と言って、じいさんを連れて行った。
警察官が帰った後、代理がぼくのところに来て、「あのじいさんは出入り禁止にするけ、見つけたら追い出して」と言った。
しかし、追い出してもまたくるもんなあ。

ところで、その後、じいさんはどうしたんだろう。
あいかわらず、「わかりません」で粘っているのだろうか。
とすれば、警察からは出られてないことになる。
普段は酔っ払いの親父に迷惑し、今日はボケもどきのじいさんに困惑している。
警察もいろいろと大変である。


中学の頃、国語の先生から、こんな話を聞いたことがある。

「先生が学生の頃、美術の授業で先生から一枚の画を見せられた。
その画は水墨画で、枯れ木に鳥がとまっている画だった。
美術の先生は、『この画を見てどう思うか?』と我々に尋ねた。
我々が各自意見を言った後に、その先生が『私はこの画が恐ろしい』と言った。
『この画は、あの宮本武蔵が描いたものだ。あれだけ人を斬った人である。だから私には恐ろしく感じる』
その画は、宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』という有名な画だった」

国語の先生は、感動的にその話をしたのだが、ぼくはこの話を聞いた時、ぼくの中で何かすっきりしないものが残った。
しかし、その時は、それが何であるかはわからなかった。

それがわかったのは、十年以上たってからのことだ。
それは、「いかにそれが凄い作品であっても、たかが画を見たくらいで、そんなことがわかるはずはない」、ということだった。
それがわかるのは、よほどの目利きか、超能力者や霊能者だけである。
その先生が、そういうたいしたお方だとは聞いてない。
では、どういう理由から、その教師はそんなことを言ったのだろう。
それは、その美術の先生の頭の中に、すでに宮本武蔵像が出来上がっていて、それを作品に当てはめた、ということである。
その作品を見て、宮本武蔵を連想したのならともかく、最初から「宮本武蔵の画」と知って見たのだから、容易に彼の持つ宮本武蔵像に走っていく。
「宮本武蔵=怖い」、笑止である。
「東大=偉い」と同じ発想ではないか。
おそらくその美術の教論は、「私は、それほど画を見る力を持っているのだ」と言いたかったに違いない。

仮に、本当に彼がその作品を見て「怖い」と思ったとしよう。
となれば、この作品は人を斬った後、すぐに描かれたものでないとおかしい。
武蔵とて、いつも仏頂面をしていたわけではなかろう。
時には軽口も叩いただろう。
人の情にも触れただろう。
そういう心境で、「怖い」と思わせるものが描けるだろうか。
人を斬った時の、鬼の心境にある時でないと、見る人に「怖い」と思わせる画などは描けないはずである。

この作品は武蔵の晩年の作品と言われる。
その時期に、武蔵は人を斬ってはいない。
では、若い頃からずっと人斬りの精神状態で居続けたのだろうか。
そんなこと出来るはずがない。
晩年といえば、あの「五輪の書」を書いていた時期である。
自ら「澄んだ気持ちでこの書を書いている」と言っているのに、どこに人斬りの精神状態が立ち入ることが出来るだろう。
「人を斬った感動を、晩年画にしてやる」と思っていたにしろ、いつまでもその感動が続くはずがない。
ましてや、年寄りである。

偉そうに口を開いた美術の教師は、その眼力のなさ、発想の凡庸さを、学生たちに公表したのだ。
実に恥ずかしい話である。


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