頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2002年12月

1977年12月31日、その日ぼくは、3ヶ月後に東京に出るなどとは、みじんにも思ってなかった。
「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っていたのだ。
年が明け、正月が過ぎ、母は「今後どうするのか?」と聞くようになった。
最初は「考えよる」と答えていたのだが、その後そのことをしつこく言われるようになった。
3月のある日、いつものように母が「今後どうするのか?」と聞いてきたので、思わず「東京に行く」と答えた。
「じゃあ、東京に行け」ということになってしまった。
翌月、ぼくは東京に出た。
考えてみると、衝動がぼくの人生を作ったといえる。

あれから25年経ったわけだが、相変わらずぼくは「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っている。
年齢と周りの環境と立場が少し変わっただけで、ぼくの本質は、あの頃と全く変わってないのである。

ところで、東京に出て何かいいことがあったのかというと、まったくなかった。
強いてあげれば、『ショートホープブルース』が出来たことくらいだろうか。
あの歌を作った頃は無敵だった。
「この歌で、今までふられ続けてきた音楽業界に殴り込みをかける」と意気込んだものである。
しかし、それも自己満足に過ぎなかった。
そういうものを生活に結びつけるなどということは、夢のまた夢である、とわかったのはずっと後のこと。。
幾たびの詩の投稿や、歌のオーディションを通して、ぼくは自分が大した才能や運を持っている人間ではないということを覚ってからのことだった。

それ以来、ぼくは夢を忘れた日々を送っている。
さて、来る年はどういう年になるのか。

と、今年最後の日記をまとめたところで、一句。
「すす払い 出てくるものは ゴミとグチ」
来年もよろしく。


中学か高校の時だったが、ラジオの深夜放送を聴いていると、突然変な放送が入ってきた。
それが何語かはわからないが、何かを話しているものではなく、ある単語を区切って読んでいるだけのものというのはわかった。
その頃は、その放送を語学教室か何かと思っていた。
しかし、抑揚のない、無表情な女性の声だったので、妙に不気味に感じたのを覚えている。
それが何だったのかわからないまま、30年の時が過ぎた。

ところが今日、何気なく見ていたテレビで、あれが何だったのかがわかったのだ。
それは、北朝鮮関連の番組だった。
その中で、暗号放送の話があった。
その番組を見た人は知っていると思うが、暗号放送とは、北朝鮮の特異なラジオ放送のことで、朝鮮語の数字を読み上げる放送である。
実際にその放送を流していたが、それこそが、ぼくが30年前に聞いた放送だった。
それは、工作員への指令だと言う。
この指令の下、工作員は日本人を拉致していたらしい。
ということは、ぼくがその放送を聞いた数日後に、拉致が行われたということになる。

その番組を見ながら「ふーん、あれは朝鮮語の数字だったのか」と思っていた時、ふと数字のことで思い出したことがあった。
前の会社にいた時のことである。
ある取引先の営業マンが辞めた。
その営業マンは、いつも上司から「数字、数字」と言って詰められていたらしい。
朝礼ではいつも「数字を作れ」と言われ、成績が悪いと「その理由を数字で答えろ」と言われ、何か企画を立てると「数字で説明しろ」と言われる。
それが毎日なので、そのうちその人は数字ノイローゼになってしまった。
それからしばらくして辞めたのだが、退職届には「退職します」といったことは一行も書かれておらず、ただ意味のない数字が羅列してあったという。

その話を聞いて、ぼくは深くうなずくところがあった。
当時、ぼくも同じように数字に悩まされていたからである。
企業というものは、数字に関しては、決して「昨年並みでいいよ」とは言わない。
それが無理なことだとわかっていても、決まって昨年より上の数字を求めるものである。
そのために営業は苦労する。
無駄な会議が多くなる。
帰宅時間が遅くなる。
休日出勤が多くなる。
当然体調が悪くなる。
情緒不安定になる。
仕事が嫌になる。
それでも、企業は数字を追求する。

それが元で、いろいろな障害が起きるようになる。
1,退職する
ぼくの場合がそうだった。
2,病気になる
前の会社にいた時は、入院する人が多かった。
中には死に至った人もいる。
さすがにその時は会社側も非を認めて殉職扱いにしたが、相変わらず同じことをやっていると聞く。
3,家庭が崩壊する
家にいないことが多いため、奥さんが切れて、離婚に至るケースである。
社内結婚で、奥さんが仕事の内容を知っている場合は理解もするだろうが、仮に奥さんが定時に帰るような仕事に就いていた場合に、こういうことが起こる。
二三、こういうケースの人がいた。
4,不正に走る
数字ほしさに、架空の売り上げをたてるようになる。
逆に架空の売り上げ扱いにして、売上金に手を付ける者もいた。
5,借金を重ねる
販売業に就いていると、どうしても自分で買わざるを得なくなることがある。
本当にその商品が欲しいのなら問題はないが、そのほとんどが必要のない商品である。
それをうまく転売出来る人はいいが、そういうことが苦手な人は借金地獄に陥ることがままある。
まあ、以上のようなことであるが、これらすべて数字の害である。

数字を追求することが悪いとは言わない。
数字があってこそ、企業は発展するのだから。
では、なぜこんな障害が出てくるのだろうか。
それは、数字に振り回されているからだ。
数字というのは酒と同じである。
ほどよく付き合っていくのが最良で、溺れてはいけない。
溺れると、数字しか見えないようになる。
上司に数字に溺れた人がいると、下の者は地獄である。
いつも数字にビクついていなくてはならない。
その結果、今日できないことを、無理矢理繕おうするようになる。
だから、こういう障害に至るのだ。
数字を生かすということは、人間を殺すことである。
そのことを心に銘記して下さいよ。ね!


ぼくは昔から自分の目標や夢を、あまり人に語ったことがない。
高校2年の時、担任から「○○はバイクに情熱をかけとるが、バイクが良い悪いは別として、打ち込むものがあることはいいことだと思う。ところで、しんたはそういう情熱をかける夢や目標を持っとるんか?」と聞かれたことがある。
ぼくは「別に」と答えておいた。
もちろんその頃の夢は、ミュージシャンである。
でも、そういうことを担任に言っても、どうなるものでもない。
担任はその時からぼくを、やる気のない人間と決めつけた。

東京から帰ってきて、しばらく出版社に勤めていたことがある。
ある時、上司から「君は何を目標に生きてきたのか?」という質問を受けた。
最初は何も答えなかったのだが、あまりしつこく聞くので、「ミュージシャンを目標に・・」と答えた。
ところが、その上司は突然声を荒げ、「そんなガキみたいなことを言ってるから、すべてにチャランポランなんだ」とぼくを非難した。
「この男とは合わん」と思ったぼくは、2日後にそこを辞めた。
おそらく、ぼくが辞めた理由を知っている者はいなかっただろう。
まあ、言ってもわかるような連中ではなかった。

それ以来、ぼくはよほど親しい人以外には、自分の目標や夢を語ったことはない。
ぼくの目標や夢を知らないから、当然ぼくの趣味や特技なども知らない。
たまに友人の結婚式などで、ぼくが弾き語りでオリジナルをやると、みなあ然とした顔をする。
後から決まって「人は見かけによらんもんやね」と言われるが、その人たちが知らないだけの話である。
親しい人は知っているのだ。

さて、本題の「来年の目標は?」であるが、今まで話してきたとおり、ぼくは今までそういうことを語った経験がないので、こういうことに答えるのには少し抵抗がある。
しかし、タイトルに「来年の目標」と銘打った以上、目標を掲げなくてはならないだろう。

実は、ぼくの来年の目標は、手前味噌で申し訳ないが、『空を翔べ!』である。
いよいよ運命の年だと直感したのである。
かと言って、何をするのかはわからない。
もしかしたら、音楽をやっているかもしれない。
もしかしたら、物書きになっているかもしれない。
そのために、会社を辞めるのかもしれない。
本当に何をするのかはわからない。
しかし、2003年という年が、ぼくの今後20年を占う年になるのは確かだ。
おそらく、運命はその方向にぼくを向かわせるだろう。
だから、ぼくもそういう心構えでいようと思う。


  <空を翔べ!>

 漠然と思い浮かべてた 大切な一日が
 今日風に乗って おれのもとにやって来た
 空には大きな雲が 
 雨はおれを叩きつける
 悪いことを考えている 
 出来るんだ
 空を翔べ!

 運命の一日だと 誰かが言った
 おれの人生は今日に かかっているんだ
 今までやってきたことは
 すべて正しいと信じるんだ
 けして逃げ出してはいけない
 前を向け
 空を翔べ!

 今日がうまくいけば 何が始まるんだろう?
 そんなことが頭の中を ぐるぐると回っている
 時間は刻々と迫っている
 おれの出番は間近だ
 大丈夫だ
 空を翔べ!

 幼い頃から 今日という一日が
 どんなに大切な日か わかっていたんだ
 弱虫なんか吹き飛ばせ
 過去のことは忘れてしまえ
 将来(さき)のことは考えるな
 行け、チャンスだ
 空を翔べ!


どうもいかん。
鼻は詰まるし、咳き込むし。
多少熱も出ているだろう。
朝からこんな調子で、一日ヒーヒー言いながら仕事をしていた。
おまけに、今日の入荷数は半端じゃなかった。
おそらく、年間最多の入荷数だったと思う。
個数にして、1000個近くあったのではないだろうか。
それを午前中は一人、午後からは二人、夕方からまた一人で荷出しをやっていた。
さすがに明日の入荷はないだろう。
いや、そう願いたいものだ。

さて、今日は来年の関心事や目標について書こうと思っている。

まず、関心事だが、なんと言っても北朝鮮である。
今日、舛添要一が地元のテレビ番組に出ていたのだが、3月ぐらいに一波乱ありそうだと言っていた。
2月でイラクが終わり、いよいよ米軍が北朝鮮攻撃を始めるということだが、その理由として、舛添は「在日米軍をイラクに向けて動かしてないでしょう」と言う。
ところで、もしそうなった時、日本はどう出るのか。
攻撃に加わるのか。
もしくは後方支援をするのか。
ぼくとしては、米軍が動くことよりも、北朝鮮が叩かれることよりも、日本の動きに関心がある。
果たして自衛隊は動くのか?
国軍復活が有り得るのか?
それによって、近隣諸国との関係はどう変わるのか?
また、靖国参拝はどうなるのか?
大いに興味を引かれるところである。

また、北朝鮮に関しては、金政権がどうなるのか、というのも大きな関心事である。
クーデターが来年にも起こるのだろうか。
今年も北朝鮮関連の本をかなり読んだのだが、どの本にも「将軍様はチビ(シークレットブーツを履いているという)で、デブ(糖尿らしい)で、我が儘で、気まぐれで、気が小さく臆病で、そのくせ見栄っ張りで、もはや救いがたい、人間の屑のような御仁である」と書いてある。
なぜ、そういう人を朝鮮人民は放っておくのだろうか?
だいたい、軍隊というのは国を守るものであるが、あの国の軍隊は将軍様を守るものらしい。
人間の屑を守ってどうするのだろうか。
それで暮らしが良くなるとでも思っているのだろうか。
さっさとクーデターを起こして、北朝鮮人民全員が韓国に亡命すればいいのだ。

ところで、仮に将軍様の目標である、北主導による統一が実現した時のことを考えてみると、空恐ろしいものがある。
1,流行歌が変わる。
例えば『釜山港へ帰れ』は、「トラワヨー、プーサンハンへー、会いたい将軍様」となるだろう。
『黄色いシャツ』は、「黄色いシャツ着た、親愛なる将軍様」だ。
2,関釜フェリーはいつも座礁するだろう。
おかげで玄界灘はいつも重油が浮かんでいることになる。
そうなると、明太子の色が黒くなる。
岩のりと同じ色の明太子なんか食いたくないわい。
3,餓死者が何倍にも膨らむだろう。
これは現実味を帯びている。
北主導の統一を許してはいけない理由がここにある。
将軍様は、思想や芸術の天才かもしれないが、経済に関してはアホ以下であるのだから。

ああ、いらんことを書きすぎて、来年の目標を書く時間がなくなってきた。
ということで、続きは明日。


今日は今年最後の休みだった。
金曜日は商品の入荷日なので、いちおう午前中は出勤した。
昨日からの風邪が治らず、少し熱が出たので、早く終わらして帰ろうと思っていた。
ところが、いつもはケースに入れてくる商品が、今日に限って段ボール箱にしっかり梱包されていたせいで、箱を開けるのに手間取ってしまい、思うように仕事が進まなかった。
それでも、なんとか11時前には会社を出ることが出来た。

今日は、帰る際に楽しみにしていることがあった。
本屋に予約しておいた『20世紀少年』の11巻と、『正論』の2月号を取りに行くことだ。
仕事が終わったぼくは、さっそく車を出し、本屋に向かった。
が、さすが年末である。
全く車が進まない。
本屋がある黒崎に着くまでは、普段は10分足らずで着く。
ところが、この渋滞で30分を要してしまった。
おまけに駐車場はどこも満車で、止めるところを探すのに一苦労である。
おかげで、本屋を出たのは12時前になっていた。

午後からは、おとなしく寝ていようと思っていた。
が、そうもいかなかった。
買い置きの灯油があと一缶になっていたのだ。
いつもなら「次の休みに」ということになるのだが、次の休みは元日である。
おそらく開いているところもないだろうと思い、今日買いに行くことになった。
一端家に帰ってから、再び外に出るというのは辛いものがある。
おまけに外は寒いときている。
最近皿倉山にスノーボード場がオープンしたのだが、ぼくの部屋の窓からその雪が見える。
それが寒さを助長する。
朝はスタジャンを羽織って行ったが、その時はダウンジャケットに着替えて行った。

やっと落ち着いたのは、午後2時を過ぎてからだった。
蓮池さんの記者会見を見、こちらで再放送をやっている『キッズ・ウォー3』を見たあと、今日買った『20世紀少年』を読んだ。
そして、そのまま眠ってしまった。
しかし、体の節々が痛く、熟睡は出来なかった。

7時に目がさめたのだが、何となく頭が痛い。
「さあ、日記の下書きでもしようか」と思い、パソコンの電源を入れた。
が、何を書いていいのかわからない。
相変わらず、タイトルのところに『履歴書』なんて書いている有様だ。
仕方がないので、何かネタを仕入れようと、『正論』をめくっていたのだが、なぜか活字が目に痛い。
で、また寝てしまう。

気がつけば、28日になっている。
あと8時間後には、会社に出勤しなければならない。
うんざりする。

今年最後の休みは、こんな一日だった。


いやー、やっと履歴書が終わりましたなあ。
いちおう第2部は予定しています。
東京に出てから、30歳ぐらいまでのことを書こうと思っています。
ここでもちょっとした波乱があります。
が、いつ書くのかは、まだ決めておりません。
もしかしたら、来年の今頃になるかもしれません。

ところで、23日の日記に書いた胃の痛みのことだが、今はすっかり治ってしまっている。
昨日の夜くらいから、それまで意識の対象だったお腹のことを、すっかり忘れていたのだ。
今朝、ふとそのことを思い出して、胃のあたりをまさぐってみると、それまで痛かったところが痛くない。
念を入れて、他のところも調べてみたのだが、やはり痛くない。
やれやれ、やっと治ったか、とホッと一息ついた時だった。
例の入院した友人から電話が入った。
明日退院することになった、という電話だった。
「で、原因は何やったんか?」
「わからん。今は全然痛くないけのう」
「そうか、それはおめでとう。で、快気祝いはいつするか?」
「土曜日にでもするか」
「・・・、考えとく」
案外、友人の念がぼくに乗りうつったために、ぼくの腹痛が起こったのかもしれない。
そうでも思わないと、合点がいかない。
同じ日に治ってしまうとは、出来すぎた話ではないか。
まあしかし、友人のことが気になっていたので、これで一安心である。
これで憂いなく年を越せることだろう。

ところが、である。
昼前のことだった。
急に鼻がむずむずしてきたのだ。
鼻の奥、ちょうどのどとつながっているところに違和感がある。
おかしいなあ、と舌でのどの奥をまさぐると、熱がある。
ぼくは風邪かと思い、すぐにお茶でうがいした。
すると、鼻のむずむずが消えた。
しかし、30分ほどすると、また鼻がむずむずしてきた。
そこで、またうがいをすると、むずむずは消えた。
しかし、また・・・。
今日はその繰り返しだった。
葛根湯を飲んだけど効かない。
ということは、鼻がむずむずした段階で、すでに風邪はかなり浸透していた、ということになる。
葛根湯は引きはじめに効果がある、と言われているからだ。
鼻の中にある菌を撃退するという、イメージ療法をやってみても効果がない。
のど飴をなめても一時しのぎに過ぎない。
結局、帰る頃には、鼻水が流れてくる有様だ。
車の中で、何度鼻をかんだことだろう。
帰りにスタンドでガソリンを入れたのだが、「レギュラー満タン」と言う時にも、鼻がタラーっと流れてきた。
スタンドの兄ちゃんが、それを見て笑った。
「ははは、レギュラー、ははは、満タンですね。ははは」
スタンドを出る時に、「お大事に」と言われてしまった。

家に帰って、丹念にうがいをした、が、もはや手遅れだ。
のどに魚の骨でも刺さっているような痛みがある。
こうなれば、いよいよ最後の手段である。
近くのコンビニに行って、ちょっと値の張る栄養ドリンクを買ってきた。
寝る前に飲もうと思っている。
もし、これでも効かないとなると、鼻水、のどの痛み、熱、咳という風邪のフルコースをたどることになってしまう。
今までの経験から言うと、完治するまでに2週間はかかるだろう。
年末は休めないし、正月も2日間しか休みがない。
前後の休みの間隔は、けっこう長いときている。
これでは憂いなく年を越すことが出来ない。

さて、そろそろ就寝の時間が迫っている。
今からぼくは、栄養ドリンクを飲んで寝ることにする。
朝が楽しみである。


これからのことは、エッセイの『長い浪人時代』に詳しく書いているので、簡単に触れるだけにする。

1976年3月、大学入試、ことごとく落とされる。

1976年4月、K予備校入学。
この年、中原中也を知る。

1977年。
3月、大学入試、再びことごとく落とされる。

4月、もう受験勉強は嫌だモードに入る。
祖父死去。

5月、就職活動を行うも、26回落とされてしまう。
外に出ることが恐ろしくなり、約2ヶ月の引きこもり生活が始まる。

7月、芦屋ボートの警備員となる。

9月、中国展のアルバイトに採用される。
一つの転機を迎える。

11月、北九州総合体育館で行われる全日本プロレスのリング作りにかり出される。
その後、運送会社でアルバイトを始める。

12月、アルバイト先で好きになった人に告白するも、「友だちなら」という条件を付けられ、結局あきらめる。

その頃、バイト仲間とよく飲みに行っていた。
その時行きつけのスナックで知り合った人が、阪急ブレーブスに入団することになった。
その激励会の席で、ぼくはガンガン酒を飲み、ガンガン歌いまくった。
ところが、あまりに張り切りすぎたせいで、その後気分が悪くなり、その人が挨拶をしている最中に吐いてしまった。
後のことは、まったく覚えていない。
ただ、翌日バイト仲間からさんざん文句を言われたのは、しっかり覚えている。

1978年。
1月、バイト仲間に成人を祝ってもらう。

2月、友人と漬け物の家宅販売のアルバイトを始める。
1週間ばかり続けたが、その店が閉店するということでやめさせられてしまう。
最後の日のことだった。
小雪の舞う中、行く宛もなく、友人と二人でさまよっていた。
どこに行こうかと迷ったあげく、高校時代に好きだった、というよりも、まだ好きだった人の家に行くことにした。
まあ、買ってもらえなくても、彼女の近況を知ることぐらいは出来るだろうし、あわよくば彼女と再会出来るかもしれない。
そういう期待をもって、彼女の家のドアを叩いた。
が、彼女は大学に行っているということで不在だった。
とりあえず、ぼくは彼女のお母さんに、漬け物を勧めた。
すると、お母さんはその味を気に入ってくれて、他の家も紹介してくれた。
さらに、ぼくたちに「腹が減っているだろう」と言って、食事を出してくれた。

1時間ほどそこにいた。
ぼくとしては、もう少しそこにいて彼女の帰りを待ちたかったのだが、次の仕事があったので、彼女の家を後にした。
その日は、遅くなった。
家に帰り着いたのは、9時を過ぎていた。
帰ってから、さっそく彼女家に電話をかけた。
2年ぶりに聞く彼女の声だった。
夢心地で、どんな話をしたのかも忘れてしまった。
雪は相変わらず降っている。
が、ぼくの気持ちは暖かかった。
その日ぼくはひとつの詩を作った。

 『春の情』

 夜が来て 星がともる
 夢から覚めた 月も色づく
 なぜか人は 急ぎ足で
 行きすぎる

 道ばたには 小さな花が
 眠たげに 目を閉じる
 夜を忘れた鳥が 家を探し
 飛んで行く

  目の前が急に 明るくなって
  夜もまるで うそな公園に
  君と二人 これからずっと
  暮らしていこうよ

 風が吹いて 君は舞う
 春に浮かれた 蝶になって
 ぼくもいっしょに 羽を広げ
 飛んで行こう

これが、東京に出る前の最後の詩となった。

1978年4月、東京に出る。

 (履歴書第一部 完)


ところで、ぼくの抱いていた「さて、どこで会ったんだろう?」の疑問だが、何年か後にやっと思い出した。
それは、夢の中で会ったのだ。
見ず知らずの人の夢を見るということは、その人がぼくの理想の女性だったということになる。
それほど、ぼくにとって大きな人だったのだ。
と、思っていた。
しかし、さらに後年、確かに会っていることを思い出した。
それは中学1年の時だった。
ぼくが一時期バレー部に入っていたということを前に書いたが、その頃のことだ。
5月に、バレーボールの区内大会があり、ぼくたち1年も応援に行くことになった。
その時、その会場の隣で、彼女の所属していたクラブの試合をやっていた。
ぼくは興味本位でその試合を眺めていたのだが、そこにある中学の1年生の団体がいた。
その頃のぼくは、知らない人にも声をかける人間だったので、当然彼女達にも声をかけた。
友人と二人で、ギャグをかましたり、悪態をついたりしたのを覚えている。
その中学が彼女のいた中学だった。
ということは、その中に彼女もいたことになる。
そのことを思い出したのは、30代の後半だった。
しかし、今のところ、それを確認することは出来ない。

ぼくの高校時代は、彼女に始まり、彼女に終わったと言える。
詩作や作曲を始めたのも、彼女がいたからであり、それが高じてミュージシャンを目指し、ありふれた人生を送ることを否定したのも、広い目でみれば彼女がいたからである。
また、『頑張る40代!』では決して触れることがないと思われる、今なお続くぼくの波瀾含みの人生も、「彼女がいたから」ということの延長なのかもしれない。
が、ぼくはそのことで、人生を失敗したなどとは思っていない。
多少波瀾万丈ながらも、いい人生を送っていると思っている。
その意味でも、彼女の存在は大きかったと言える。
もし彼女という存在がなかったら、平々凡々としたありふれた人生を送っていたことだろう。
そして、そのありふれた人生の中に価値観を見いだしていたかもしれない。
しかし、もしそうであったとすれば、このホームページの存在はなかったと思う。

と、高校時代の総括が出来たところで、そろそろ高校を卒業しようと思っているのだが、「2年や3年の時はどうだったんだ?」という方もいると思うので、簡単に触れておくことにする。

1974年、高校2年。
この時代のことは、さんざん書いているので、ここでは割愛する。
何とか人に聞かせることの出来る、オリジナル曲を作ったのがこの頃である。
後にバンドを作るのだが、そのバンドでやった曲のほとんどが、高校2年の時に作ったものだった。

1975年、高校3年。
2年の終業式の日に、これで高校生活が終わったと思った。
高校に入った時から、ぼくは『高校3年生というのは、高校生ではなく受験生だ』と思っていた。
そういう考えを持っていたために、高校2年までに高校生活を楽しむだけ楽しんだ。
その結果、3年の時は抜け殻になっていた。
クラスに溶け込もうとせず、一人孤立していた。
2年までのぼくを知る人間は、その変化に驚いていたようで、「何で2年の時みたいにはしゃがんとか?」などと言ってきたが、ぼくは無視していた。

さて、孤立した目で周りを見渡すと、実によく人の心が見えてくる。
誰もが不安だということが、手に取るようにわかった。
馬鹿やっている者も、真面目ぶっている者も、みんな不安の固まりだ。
ちょっとした会話でさえ、すべて空元気に聞こえる。
もううんざりだった。
結局、うんざり状態のまま、ぼくは高校を卒業する。

1976年3月、高校卒業。


ここしばらく履歴書にかかりきりで、近況の報告が出来てない。
ということで、今日は近況報告をすることにする。

 「胃の痛い話」
10日ほど前に、突然胃のあたりが痛くなり、その状態がずっと続いている。
これまでも胃が痛いことは何度かあったが、その時は何も気にせずに、痛いままで放っておいた。
それがよかったのか、何日かすると、そのまま何事もなかったように痛みは治まってた。
しかし、今回はちょっと事情が違う。
胃の痛みを気にしているのだ。

実は今、高校の同級生が病院に入院している。
先週見舞いに行ってきたのだが、ずっと点滴を受けていて、百何十時間も胃の中に何も入れない状態が続いているということだった。
なるほど、首の付け根のところに管を通され、そこから点滴を受けている。
動くのは自由らしいが、動く範囲が、その点滴の機械の周りだけに限られていて、まるでつながれた犬のようだった。
なぜこんなことになったのか、彼に話を聞いてみると、「腹が痛くなったので病院に行ったところ、そのまま入院させられた」ということだった。
「今はどうあるのか」と聞くと、「今は全然痛くない」とのこと。
「じゃあ、もう1週間くらい痛みを我慢してから病院に行っとったら、『急性胃炎』で片付けられたかもしれんのう」
「ああ。おそらくそうなっとったやろう」

ぼくが胃の痛みを覚えたのは、彼を見舞いに行く何日か前からだった。
彼を見舞っている最中も、胃がちくちく痛んでいた。
しかし、病人を前にして、病人面するわけはいかない。
いかにも健康なふりをして、ぼくは彼を見舞ったのだ。
が、彼から病気の説明を聞くたびに、自分の症状と照らし合わせていた。
さらに、彼のその時の犬のような姿、胃カメラを受けた時痛かったという話、CTスキャンまで受けたという話、そういうものがぼくの恐怖心を煽った。

それ以来、胃の痛みが気になって、気になって。
ここ何日かは、酒を控える、たばこを控える、腹を冷やさない、なるべく牛乳を飲む、といった生活をしている。
しかし、一向に胃の痛みは治まらない。
朝方よくても、昼からまた痛くなる。
そこで、今日その方面に詳しい人に、思い切って聞いてみることにした。
「みぞおちのあたりが痛くて、胃が張ったような感じがするんやけど、これは何かねえ?」
「ああ、それは神経性胃炎やろ」
「神経性胃炎?」
「うん、私も同じような症状が続いたことがあって、その時病院に行ったら、そう言われた」
「どうやったら治るんかねえ」
「気にせんことよ」
痛いから気になるのに、それを気にするなというのは難しいことである。
いったい、どうしたらいいのだろう?

 「クリスマスプレゼント」
うちの店でアルバイトをしている学生に、Iというのがいる。
今日食事が終わって、食堂の後片づけをしていると、Iが入ってきた。
一人で頭を抱えている。
どうしたんだろうと思って見ていると、突然「しんたさんも、プレゼント買うんでしょ?」と聞いてきた。
「プレゼント?」
「クリスマスのですよ」
「いいや、買わんよ」
「えっ!?」
「何で、クリスマスだからといって、プレゼントなんか買わないけんとね」
「でも、クリスマスですよ」
「あんたんトコ宗派、何?」
「浄土真宗ですけど」
「なら買う必要ないやん。うちも真宗やけ」
「考え方が古いですね」
「古いかねえ。クリスマスやけ、プレゼント買わないけんと思っとるほうがおかしいと思うけど。そんな偏った常識に縛られるけ、頭を抱えないけんとよ」
「そうですかねえ」
「ああ、そうよ。プレゼントなんかあげんで、お経でもあげとき」
そう言って、ぼくは食堂を出た。
Iはまだ頭を抱えていた。


ギターについては、今年の1月に詳しく書いているので、ここでは割愛する。

さて、話はさかのぼるが、この年の4月、例の友人が自殺した日のことだった。
ぼくのクラスに、どこかで見たことのある女子生徒がいた。
『どこかで会ったことがあるんだけど、さて、どこで会ったんだろう?』
そんなことを考えながら、その子のことを何気なく見ていた。
結構活発な子だった。
それに目立つ。
と言うより輝いている。
ぼくの中学校にはいなかったタイプの子だった。
しかし、何か懐かしい感じがする。
『確かに以前会ったことがある。さて、どこで会ったんだろう?』
そのことを聞いてみようかとも思った。
が、聞かなかった。
ぼくは女の子と話すことには抵抗を持たないたちなのだが、その時はどういうわけか躊躇してしまったのだ。

『さて、どこで会ったんだろう?』と思いながらバスに乗り、『さて、どこで会ったんだろう』と思いながら家に着いたところで、友だち自殺の通報があったのだ。
その後もことあるたびに『さて、どこで会ったんだろうか?』と考えてみたのだが、その答はでなかった。
しかし、そのことを考えていくうちに、だんだん彼女から心が離れなくなっていった。

ぼくがはっきりその子のことを「好きだ」と思ったのは、その年の11月だった。
ところが、「好き」と自覚した時に、友人からショッキングなことを聞いた。
「しんた、あの子のことどう思う?」
ぼくは、自分の気持ちを隠すのに必死だった。
「うーん、どっちかと言えば、かわいい方やないんかねえ」
「そうやろ」
「それがどうしたん?」
「おれ、あの子とつき合うことにしたっちゃ」
「えっ!? いつ言うたんね?」
「昨日やけど」
「ふーん・・・」
もちろんその時、友人はぼくの落胆に気づかなかっただろう。

ぼくはその頃右手の小指の骨を折り、それまで毎日行っていたクラブをさぼるようになっていた。
そのため学校が終わるとすぐに帰っていたのだが、帰りはいつもその友人といっしょだった。
その話も、帰る時に聞かされたのだ。
ぼくは目の前が真っ暗になった。
友人の前では努めて明るく振る舞ったのだが、一人になった時、そのことがぼくに重くのしかかった。
「もうおれにはギターしかない」
そう思って半ばムキになってギターの練習をした。

それから毎日、友人から「昨日電話したら、話が長くなってねえ」とか「日曜日に二人で映画に行った」などというのろけ話を聞かされたものだった。
ところが、それから1ヶ月ほどして、友人が「しんた、おれあいつと別れた」と言ってきた。
「どうしたん?」
「彼女が『別れよう』と言ってきた」
「何かあったんね?」
「クラブ活動に打ち込みたいらしい」
「別に、クラブは関係ないやろ?」
「いや、彼女は気が散るらしい」
「ふーん」
ぼくは素っ気ない返事をしながら、内心『これでおれにも目が出てきた』と喜んでいた。
しかし、その喜びは、友人の言った次の言葉で砕け散ることになる。
「で、彼女、高校を卒業するまで誰ともつきあわんと、おれに約束した」
「・・・。じゃあ、高校卒業したら、おまえとつきあうということ?」
「いや、そういう意味じゃないけど」

ところが友人の話は意外な方向に展開する。
「ところで、おれ、本当はあいつより好きな人がおるっちゃ」
「えっ!?」
「実は、あの子は二番目に好きな子やったんよね。本命にはなかなか言い出しきらんでね。で、とりあえず、あの子と付き合うことにしたんよ」
ぼくは言葉が出なかった。
ふざけるな、である。
ぼくは彼女と出会って半年の間、あの子のことをどう思っているのかと、自分の心に問いかけてきた。
そして最終的に出た答が、「好き」だったのだ。
ぼくは一途な恋をする人間なので、いつも『二番目に好き』な人など存在しない。
好きな人は一人である。
いつもその人のことしか思ってない。
それなのにこいつは、である。

やけになったぼくは、その後「彼女が欲しい」が口癖になる。
新しい出会いを探して、その子のことを忘れようとしたのだ。
しかし、その子以上の女性に出会うことはなかった。
その後、8年間も。

8年後に、ぼくはその子を諦めることになる。
それは、彼女が結婚したからだ。
高校時代から書き始めた詩、高校時代から作ってきた歌、それらはすべて、ぼくの彼女への想いであった。
だから、たとえそれが拙い作品だとしても、たとえそれが気障な作品だとしても、その時までは、それらすべてが現実だった。
しかし、彼女の結婚を聞いた時、そういうものがすべて、過去のものになってしまった。


1973年11月、またもや事件が起きた。
柔道部に出入りしていた3年の先輩が、若戸大橋から飛び降り自殺を図ったのだ。
そのことは新聞にも載った。
見出しは『文学青年、若戸大橋から飛び降り自殺』だった。
ぼくは知らなかったが、先輩はよく哲学書を読んでいたということだった。
また、詩を書いていたらしく、新聞にはその詩も掲載された。
ぼくには結構友だちがいるように見えたが、先輩は孤独だったらしい。
先輩からは「1年で知っとるのは、お前しかおらん」と言って、よくかわいがってもらっていたので、その分ショックが大きく、その後しばらく落ち込んでいた。
そのため、クラスの女の子から「しんた君も自殺するんやないんね」と言われたこともある。
その頃のぼくはフロイトなどを読み、詩を書いていたということもあって、彼女はそう思ったのだろう。

さらに訃報は続いた。
2年の人が死んだのだ。
死因は、やはり自殺だった。
頭からビニールをかぶり、そこにガス管を差し込んで死んだらしい。
柔道部の先輩に、その人と同じ中学の出身の人がいた。
通夜に行ったらしいが、「あいつの彼女が来とってねえ。泣き崩れて、見るに忍びなかった」と言っていた。
ぼくは、その人のことを知らなかったので、あまり深い関心を持たなかったが、またもや死について考えるようになった。

それから数ヶ月後、中学の同級生が自殺したとの情報が入った。
その同級生とは、中学1年の頃、何度か遊んだことがあるが、それほど深いつき合いはなかった。
なぜ死んだのかは知らない。
おそらく孤独感にさいなまれてのことではなかったのだろうか。
その頃、『孤独』という名の下に死んでいく若者が多くいた。
それは、一種の流行のようなものだった。

ぼくは昔から自分のことを、孤独な人間だと思っている。
その自覚を根底に行動していると言っても過言ではない。
人と同じ行動をとることが嫌いだし、人と徒党を組むことを好まない。
そのために寂しい思いをしたこともある。
深い谷間に落とされた気持ちになったこともある。
そんなぼくが自殺に走らなかったのには理由がある。
それは、孤独であることを楽しんでいたからだ。
まあ、死に至るほどの孤独感を味わっていない、とも言えるのかもしれない。
しかし、死に至る孤独感がどのくらいのものなのかは知らないが。

1973年11月、ギター入手。
2学期に入ってからのぼくは、「ギターが欲しい」が口癖だった。
いろんな人に「バイトしてギター買う」と言っていた。
そのいろんな人の中の一人にMちゃんという女性がいた。
彼女はぼくと違う中学の出身なのに、どういうわけか、ぼくの家庭環境をよく知っていた。
理由を尋ねてみると、ぼくの従姉がMちゃんの家で働いているとのことだった。
Mちゃんの家は花屋をやっていた。
そこで、いとこがあることないことを言っていたらしい。
当然、Mちゃんを通じて、ぼくの情報も逐一従姉の耳に入っていた。
もちろんギターの件も。
そして、そのことは伯父の耳にも入った。
伯父は父の兄で、高校生がアルバイトをしたら不良になると思っている古い考えの人だった。
ある日、伯父から母に電話があった。
「しんたがギターほしがっとるそうだが、こちらでギターを用意するから、絶対バイトなんかさせんで欲しい」という内容だった。
それから1週間ほどして、伯父の元からギターが届いた。
ここからぼくの人生が変わる。


このページのトップヘ