頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2004年02月

老子に、『無為にして為さざるなし』という言葉がある。
60年代後半にヒッピーなる人たちが現れたが、彼らのバイブルが老子であり、その考え方の根幹がこの言葉だったという。

さて、この無為という言葉だが、一般には「何もしない」という意味だと思われている。
確かにそういう意味もあるのだが、老子はそういうふうにこの言葉を用いているのではない。
彼は、「何をしないことをする」というニュアンスで、この言葉を用いたのだ。
「何もしない」と「何もしないことをする」、この二つの意味は似ているが、微妙に違っている。
前者は受動的で、後者は能動的である。

この二つの意味を、ぼくは「なるがままに」と「何とかなる」という言葉で解釈している。
確かにぼくも、初めて老子を読んだ時は、「なるがままに」というふうに捉えていた。
そして、その「なるがままに」を実践していた。
が、次第に目に力がなくなり、覇気がなくなっていくのを感じた。
厭世観というのか、だんだんやる気さえ失ってしまった。
「老子も厭世観の人だったのか?」と思い、いろいろな書物を調べてみると、どうもそういう人ではなかったらしい。
「なるがままに」、と、こんなことを言いながらも、一番の関心事は政治だったというから、実にしたたか者である、と当時は思っていた。
が、後年それが間違いだと気づいた。
彼は政治の要諦として、「無手勝流がよい」と説いていたのだ。
最初から規範などを作ってしまうと、人はそこから外れることを悪と考えるようになる。
そうなると、臨機応変の対応が出来なくなり、だんだん政治は停滞していく。
そこで、老子は臨機応変に対応出来る「無手勝流」が一番、と説いたのだ。

その「無手勝流」を、ぼくは「何とかなる」というふうに捉えたわけだ。
そう捉えて以来、ぼくは「なるがままに」などとは言わなくなった。
というより、考えなくなった。
何か事が起こると、「何とかなる」と思うようになったのだ。

ぼくが、今住んでいるのはマンションである。
賃貸ではなく、購入したものだ。
ある日のこと、何気なく朝刊に入っていた折り込みチラシを見ていると、「マンション分譲開始」という文字が目に飛び込んできた。
場所を見ると、実家のすぐそばである。
その日まで、マンションなんてまったく興味がなかったのだが、そのチラシを見て、なぜか「モデルルームを見に行こう」という気になった。
そこでその日の午後、ぼくはそのマンションに行ってみた。
一通り説明を受け、モデルルームを見せてもらった。
その時だった。
「予約します」というセリフが、勝手に口をついて出た。

そういうつもりは毛頭なかった。
このマンションを買った当時、ぼくの年収は少なかった。
しかも、その頃ぼくは、車のローンも抱えていた。
こんな性格だから、貯金があるわけでもなかった。
それでも、そう言ったことに対する後悔は一切なかった。
その時、頭の中にあったのは、「何とかなるやろう」言葉だった。
あれから、数年経つ。
「なるがままに」と諦めるのではなく、「何とかなる」という信念を持って事に当たったことがよかったのか、今のところ不思議と何とかなっている。


取引先にもそういう、間の悪い人がいる。
その人は、決まってぼくが食事に行く直前にやってくるのだ。
こちらは早く食事に行きたいのに、彼のおかげでなかなか行けない。
しかたなく、彼の来る日は時間をずらそうと思い、1時間ほど食事の時間を遅らせたことがある。
ところが、そういう日に限って、彼も1時間ほど遅れてやってくるのだ。
そこで、「あんた、おれに飯を食わさんために来よるんね」とつい嫌味を言ってしまう。
彼は頭を掻きながら、「いや、そういうつもりじゃないんですけど…」と言う。
が、次の週も、彼は決まってぼくの食事の直前にやってくるのだ。

また、こういうこともある。
休憩時間中に、何人かでお菓子を分けて食べるとする。
そういう時、決まって呼ばれもしないのにやってくる人がいる。
その人が入ってきた時、ぼくたちは「あっちゃー」という顔をして、お互いの顔を見合わせる。
まあ、別にその人にお菓子を分けてやる義理もないのだが、結局、一人だけ何もないのもかわいそうだから、ということでその人にお菓子を分けてやることになる。
ちなみに、そういう人に限って、図々しい人が多い。
「悪いねえ」とは言いながらも、決して遠慮はしないものである。
その人が去ったあと、ぼくたちは、いつも「あの人、いつもいいところで顔だすねえ」とか「鼻が利くんやろうねえ」などと、小悪口を言い合っている。
一方でその人は、「ラッキー!!」とか「タイミングがよかった」とか思っていることだろう。

そう、『間の悪い人』は、裏返せば『タイミングのいい人』なのである。
前述の友人も、電話をかけることが彼の目的だったわけだから、ぼくに「間の悪い男」と思われながらも、結局目的を達成している。
また、取引先の人も、もしぼくが食事に行っている時に来たとしたら、ぼくが帰るまで待つか、出直さなければならない。
ということは、ぼくにとって間の悪い時間であったにしろ、彼の中ではタイミングがよかったわけである。

そういえば、ぼくはいつも間を外した生き方をしていると思っている。
先の論法でいくと、そういう人は、他人にとっては「間がいい人」ということになる。
そのせいだろうか?
ぼくは、いつも損ばかりしているような気がする。


昨日の日記は、今日が休みということもあって、のんびりと書くつもりでいた。
まあ、のんびりとはいえ、朝9時には嫁さんを仕事に送っていかなければならないので、午前3時には書き終えようと思っていた。
ところが、「のんびり」という言葉に緊張感を欠いてしまったのか、なかなか筆が進まず、ようやく日記を書き終えた時のは、もう午前5時を過ぎた頃だった。
その後も少し起きていたので、寝たのは結局6時になってしまった。
嫁さんを送るためには、8時に目を覚まさなければならない。
そんなわけで、2時間程度しか睡眠が取れなかった。

さて、嫁さんを送った後、寄り道もせず家に戻った。
その時すぐに寝ていれば、昼から好きなことが出来ていた。
ところが、こういう時というものは、すぐに寝るのがもったいなく感じるものである。
ということで、パソコンをいじったり、ギターを触ったりして遊んでいた。

最近は、ギターを触るのも、けっこう熱が入っている。
昔作った曲を、何度も繰り返し練習した。
最初は出なかった音も、何度もやっているうちに、だんだん出るようになった。
また、午前中は寝不足で開かなかった声も、ようやく午後になって開いてきた。
そこで、「ちょっと録音してみようか」という気になった。

ところがである。
マイクが見あたらないのだ。
いろいろな場所を探したのだが、どこにもない。
「おかしいなあ」
再度探したのだが、やはり見つからない。
そのうち、だんだん録音する気が薄れてきた。
「今度にしよう」
そう思うと、急に眠たくなってきた。
そこで、昼寝をすることにした。

午後3時過ぎだった。
寝不足のせいか、さすがに寝付きはよかった。
ところが、寝入ってからしばらくして、何か音が聞こえた。
まだ頭は眠っているため、それが何の音なのか判断できない。
何度かその音が鳴って、ようやくそれが携帯電話の着信音だということがわかった。
「もしもし」
「今、売場やろ?」
友人の声だった。
「えっ!? 今日は金曜日やろっ!休みっ!」
ぼくは寝起きが悪いために、そういう時の電話の応対は非常に無愛想になる。
「ああ、そうやったか…」
友人も機嫌が悪いのがわかったのか、そそくさと電話を切った。

そして、再び布団に潜り込んだのだが、一度覚めた目は、なかなか眠れないものである。
そこで眠るのを諦め、風呂に入ることにした。
ぬるま湯に浸かって、汗が流れ心地よくなってきた時だった。
またしても携帯電話の着信音が鳴った。
ぼくは風呂から飛び出し、真っ裸で電話の置いてあるところに走って行った。
「もしもし」
「ああ、さっきは悪かったねえ…」
またしても先ほどの友人だ。
(さっきより、今のほうが悪いわい)
そう思いながら、電話の応対をした。

こちらが「今、睡眠中」とか「今、入浴中」とか言ったとしても、彼に言わせれば、「寝とるとか、風呂に入っとるとか、こちらからわかるわけないやん」と言うだろう。
それはそうだろうが、たまたまかけてきた時間が、こちらに都合の悪い時間だった場合、いやでも「間の悪い男だなあ」と思ってしまうものである。


 『夢のいたずら』

 「君を愛してる」と言いかけた時
 いつも同じように、終わる君の夢
 言い出せなかった、大きな悔いが
 いつまでも残る。あの若い日は、
 先へと進まない
 いつもいつも、途切れた映画のように
 後味悪い、夢のいたずら

 朝の目覚めは、夢を引きずって
 力の入らない、一日の始まり
 あの頃君は、ぼくのことを
 どう思ってたのか、知りたくなって、
 想い出を訪ねる
 いつもいつも、過去に縛られていく
 もう戻れないことも忘れて

  言い出せなかった、大きな悔いが
  いつまでも残る。あの若い日は、
  先へと進まない
  いつもいつも、途切れた映画のように
  後味悪い、夢のいたずら


先日の日記書いたが、30代前半に作った歌である。
その当時、高校時代に好きだった人に、まだ潜在的な未練を持っていたのか、よく彼女の夢を見たものだった。
その内容はこの詞にあるとおりで、「おれ、お前のことが…」と言いかけた時に終わってしまうのだ。
あまり頻繁に、そういう夢を見るので、「もしかしたら、彼女のほうが、何かぼくに訴えたいことがあるんじゃないか」と期待したほどである。
しかし、現実には何も起こらなかった。
結局、いつの間にかそういう夢は見なくなり、ぼくの描いたドラマは、はかなくも想像だけに終わってしまった。

昔の人は、好きな人が夢に出てきたら、相手も自分のことを思ってくれていると判断したらしい。
万葉集の防人の歌などに、そういうことが書いてあった。
それを読んだ時、「ああ、そうだったのか!」と信じたものだった。
ところが、あまりに多くの女性が夢に出てくる。
その中には好きでもない人もいる。
いや、好きでない人がほとんどだ。
結局、「好きでもない人が出てくるのはおかしいし、こんなに多くの人に思われているはずもない」と思い至り、馬鹿らしくなってそういう考えを捨てることにした。

小さい頃は、よく空を飛んでいる夢を見たものだ。
それで、ぼくは空を飛べるものだと思ってしまった。
試しに、2階の階段から飛んでみたことがある。
一瞬体が宙に浮いたように思えた。
が、飛べなかった。

最近は、念力を使う夢をよく見る。
手も触れずに、コインを曲げたり、悪党を倒したりやっている。
夢から覚めたあと、ぼくはそういう念力を以前から使っていたように錯覚するのだ。
ぼおーっとした意識の中で、手を振ったり、指をひねったりやっている。
それを見ていた嫁さんが、「何しようと?」とぼくに声をかける。
それでやっと目が覚めるのだ。
まあ嫁さんだからいいようなものの、これが他人だったら、その人は一生ぼくを変な目で見ることだろう。
もしかしたら、こういうことも、夢のいたずらなのかもしれない。


昨日、Bフレッツの工事を行った。
工事と言っても、ADSLのモデムを取り外し、新たに光ファイバーのモデムを取り付けるだけの簡単なものだったが。
取り替えるだけなら、誰にも出来そうなものだが、NTTの人に言わせると「そうではない」そうだ。
「接続に専門的な知識が必要なので…」ということだった。

で、実際にその工事を見てみると、接続したのは電話回線とLANケーブルだけだった。
「この二つを接続するだけなのに、専門知識が必要なんだろうか?」とは思ったが、工事代がただなので、余計なことは言わないことにした。

最後に工事の人は、自分のパソコンを取りだして、モデムに繋いでいた。
「45Mbps出てます」
「速いですねえ!」
「プロバイダの関係で少し落ちるかも知れませんけど、それでも40メガは出ると思いますよ」
今までADSLで出ていた速度は、せいぜい2Mbps止まりだった。
40Mbpsといえば、その20倍は出るということである。
最近、歌のダウンロードやアップロードを頻繁にやっているので、通信速度は速ければ速いほうがいい。
マンションタイプなので、同じ光ファイバーでも100Mbpsは出ない。
このタイプの最高速度は50Mbpsだということだ。
40Mbpsなら上出来である。

工事の人が帰ったあとで、さっそくパソコンの電源を入れ、速度を測ってみた。
「え!?…」
何と、測定の結果は6Mbpsではないか。
工事の人が言っていた速度の、およそ7分の1しか出ていない。
これでは局から近い場所の、ADSLの速度と変らない。
「これはおかしい」と思い、パソコンやその周辺をいろいろ調べてみた。

「ああ、そうか!」
そういえば、このパソコンはADSL向きにチューニングされている。
これをBフレッツ向きに替える必要がある。
ということで、チューニングを替えてみた。
再び速度を測ってみると、今度は約倍の13Mbpsになった。
測定サイトに書いていることをよく読んでみると、「ウイルス対策やファイヤーウォールソフトが常駐している場合は、計測速度が著しく低下する場合があります」と書いてあった。
そこで、常駐のソフトを外してやってみると、今度は15Mbps出た。
が、40Mbpsにはほど遠い数値である。

その後も何度かやってみたが、速度は13Mbpsと15Mbpsの間を往ったり来たりした。
やっているうちに、馬鹿らしくなって「もういいや」という気分になってきた。
そこで測定を中止し、現状に満足すること努めた。

が、なかなか諦めきれるものではない。
その後いろいろ調べてわかったことだが、25Mbpsの損失は、どうもルータに原因があるらしい。
今使っているルータは30Mbpsが限度なのだ。
そこで今日、NTTに電話し、「これに代わる、もっと速いルータはないか?」と聞いてみた。
が、答は「ない」ということだった。
せっかくの光ファイバーだ。
せめて20Mbpsは出てほしいものである。


ようやく歌から解放され、しばらく飲んだ後に、ぼくたちは帰ることにした。
その際、ママさんから「最後に一曲」と言われたが、その時指先は痛みを通り超え、ジンジンと痺れていた。
そのため、もうギターを押さえることは出来なかった。
「また次週きますから。今度はちゃんと自分のギターを持ってきます」
そう言って、ぼくたちは店を出た。

その後、ぼくはその店に入り浸ることになる。
思えば、その頃はその店で歌うために、遅い時間に家に帰っても、いちおうギターに触るようにしていた。
それにあわせて、中断していた作詞や作曲も再開することになる。
プレイヤーズ王国で発表した『追いかけて』や、今度アップする『夢のいたずら』などは、この頃作ったものだ。

ところが、一度やめたギターの腕は、一向に上がらない。
やはり握力の低下が響いているのか、音がうまく出ない。
特に『F』や『B』といった、バレーコードの音が出せないのだ。
バレーコード押さえる時は、いちおう要領もあるのだが、長い時間押さえていようと思ったら、どうしても握力が必要になってくる。
ストロークの時は、わざとカットさせているように弾いていたので、何とかごまかせた。
だが、フィンガーピッキングの場合はごまかしがきかない。
それで苦労した。
何とか音が出るようになるまでに、数ヶ月を要したものだ。
ところが、音が出るようになって満足したのか、再びぼくはギターから離れてしまった。
とはいえ、スナックには通っていた。
が、その頃にはギターよりも、他のお客としゃべるほうが楽しくなっていた。
その後、ぼくは会社を辞めてしまい、そのスナックに行くこともなくなった。
その後再び、ギターに触ることはなくなった。
そのせいで、作詞や作曲をすることもなくなった。

転職後は、休みも多く、帰る時間も早くなった。
そのおかげで、興味はドライブへと移っていった。
それが何年間か続き、今度はパソコンへと興味が移った。
ホームページを立ち上げ、何とかそれが軌道に乗り出すと、今度は別のことがしたくなった。
何をしようと考えていたところ、たまたまプレイヤーズ王国というところを見つけた。
それで何曲か発表してみたのだが、ギターを離れていた時に録音したものだから、どうも演奏がぎこちない。
「これは録り直さないけん」
そう思って、再びギター生活を始めるようになった。

このところ、一日2時間はギターを触っている。
そのせいで指が痛い。
ほどほどのところでやめようと思っているのだが、今のところ、ギターに代わる興味が見つからない。
まあ、とにかく確かな音が録れるまで、やってみるつもりだ。


スナックで歌うと言っても、別にステージが用意されているわけではなかった。
カウンターで、他のお客さんと肩を並べた状態で歌うだけだった。
その日は、たまたま他のお客さんはおらず、店にいるのはママさんと友人とぼくの3人だけだった。

店に行く前の日、友人に電話をかけ、「ギターは持って行かんでいいんか?」と尋ねた。
「ああ、それはいいよ。店にちゃんとギターが置いてあるけ、大丈夫」
それを聞いて安心した。
当時はJRで通勤していたので、最小限の荷物だけしか持って行ってなかった。
いつも満員だからである。
そんな中に、ギターを持って乗り込むというのは狂気の沙汰である。

そういえば、東京にいた頃、帰省のたびにギターを持って帰っていたのだが、そのためにいつもきつい思いをしていた。
まあ、飛行機で帰る時は、荷物が別になるのでよかった。
が、新幹線で帰る時はきつかった。
他の席に立てかけておくことも出来ないので、いつも抱きかかえるようにして席に座っていた。
そのために、自由がきかず、窮屈な思いをしたものだった。
必ず座れる新幹線でもこの有様なのだから、必ず座れない通勤電車での窮屈さと言ったらないだろう。

さてその日、友人と合流し、その店に向かった。
店では、ママさんとギターが待っていた。
ママさんは「そこに座って」と言って、ぼくをギターの横に座らせた。
そして、さっそく弾けと言う。
ぼくはおもむろにギターを手に取った。
「!!!」
これでは弾けない。
ネックが反って、弦が浮いてしまっているのだ。
ただでさえ握力が落ちているのに、この弦高では充分に音が出せない。
「他にギターはないんですか?」
「ごめんね。それだけしかないんよ」
まあ、どうせ腕も落ちていることだし、「これでもいいか」ということになり、そのギターを弾き始めた。

一曲歌い終わるたびに、ママさんから次のリクエストがくる。
だんだん、ギターを押さえる指が腫れ上がっていった。
「氷ないですか?」
「え、氷?あるよ」
そう言って、ママさんはコップに氷を入れてきた。
「何すると?」
「冷やすんです」
ぼくはそう言って、指をコップの中に突っ込んだ。
ある程度痛みが治まると、また次の歌をうたう。
こうやって、2時間以上、ぼくは拓郎の歌を歌い続けた。


朝起きてから家を出るまでギターを触り、家に帰ってから食事までギターを触り、風呂を上がってから寝るまでギターを触る。
何を置いても、ギターギターギターだった。
もちろん勉強などは一切やらない。
勉強よりも、ギターの練習や作詞作曲のほうが大切だった。
高校に入ってから就職するまでの8年間、ぼくはずっとこんな生活をしていた。

ところが、就職してからは、こんな生活が出来なくなった。
とにかく帰りが遅い。
そのため、ギターに触りたくても、ギターを触る時間が持てないのだ。
そのせいで、次第に左手の指先は軟らかくなり、それに連れて握力もなくなっていった。
そのせいで、休みの日にギターを弾いても、指は動くものの、音がはっきりと出なくなった。
それが歯痒くて、そのたびに「これからは毎日ギターを弾くぞ!」と決心した。
しかし、仕事の日は、また時間に追われる。
そういうことが何度か続き、そのうち音楽に対する情熱がだんだん薄れていった。
つまり、休みの日にもギターに触ることがなくなったということである。

30代に入った頃だった。
高校時代の友人が「あるスナックのママさんにしんたの話をしたら、『ぜひ弾き語りを聴いてみたい』と言うんよ。一回そこで歌ってくれんやろうか」と言ってきた。
その頃は、すでに音楽への興味はまったくなくなっており、オリジナル曲は、歌詞すらも忘れてしまっていた。
「おれ、もうオリジナル歌えんよ」
「別にオリジナルじゃなくてもいい。拓郎でも何でもいいけ」
ということで、ぼくは拓郎を歌いに、そのスナックに行くことになった。

歌うのは、その話があった日から数えて、一週間後だった。
歌はともかくも、弾き語りという以上、ギターの練習をしなければならない。
あいかわらず仕事に追われる毎日だったが、寝る時間を減らして、ギターの練習に励むことにした。
が、指がヤワになっていたせいで、なかなか往年の演奏が出来ない。
ここでも握力が問題になった。
とにかくはっきり音が出ない。
そこで、スポーツ店でハンドグリップを買ってきて、仕事の合間に握力を鍛えることにした。
しかし、一週間という時間は、復活するのには短すぎた。
結局、握力は元に戻らなかったのだ。
指先も久しぶりにギターを弾いたせいで、ちょっと触れただけでも痛みを感じる。
「こんなことで大丈夫なんだろうか?」と、焦りを感じながら、一週間は過ぎた。


昨年、「当時、朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと、名前に『金』などと(朝鮮名が)書かれ、それを見た満州の人たちが『朝鮮人だな』といって、仕事がしにくかった。朝鮮の人たちが『(日本式の)名字をくれ』といったのが創氏改名の始まりだ」という、麻生(太郎)発言が問題になった。
例のごとく、韓国側から抗議が出た。
が、そのせいで麻生氏が失脚することはなかった。
なぜなら、これが真実だからだ。

「内鮮一体じゃないか。日本名をくれ」と多くの朝鮮人や台湾人が言うので、最初は渋っていた日本政府も、結局折れて、昭和15年「じゃあ、そうして下さい」と政令を出した。
そのとたん、多くの人たちが我先にと役場に走ったという。

とはいえ、この創氏改名は、なかなか面倒なものだったという。
役所仕事なので、当然時間がかかる。
特に、朝鮮の場合は姓と氏を分けたため、手続きにはかなりの時間を要したという。
例えば、金さん(夫)と朴さん(妻)という姓の夫婦が、創氏改名で田中という氏を届けたとする。
当然、夫婦ともに氏は田中になるのだが、姓である金と朴はそのまま戸籍に残さなければならなかった。
そのため、戸籍上、夫は「田中(金)某」と妻は「田中(朴)某」としなければならなかった。
朝鮮の伝統文化を尊重したがために、こんなややこしいことになったのだ。

以上が創氏で、もう一方の改名は、裁判所の許可が必要で、その手数料は一人50銭必要だったらしい。
だから、当時の朝鮮では、約80%の人が創氏を行ったらしいが、改名のほうは、それほどではなかったという。

しかし、考えてみればうらやましい話である。
自分の名前を自分で作ることが出来、なおかつ、それが公的に通用するのだ。
例えば『しろげしんた』という名前だが、これはネットだけで通用する名前で、「この名前が好きなので、この名前で運転免許証を作ってくれ」と言っても、誰も取り扱ってはくれない。
しかし、当時の朝鮮や台湾では、これが出来たんだな。
本当にうらやましい。

当然のことながら、現代の日本では、本名以外の名前を、公的に使用することは許されていない。
許されているのは、通称名という狭い範囲だけで通用する名前だけだ。
『しろげしんた』といったハンドルネームや、芸名、ペンネームもこの中に含まれる。
その名前が一般的になった場合、裁判所に申請すれば改名することが出来るようになっている。
が、それは名だけで、氏のほうは出来ない。
だから、『しろげしんた』という名前は、永遠に公的にはならないということになる。

ところで、このペンネームや通り名というのを考えるのは、実に楽しいものだ。
いろいろな自分像を、その名にかぶせることが出来る。
ぼくは、元々本名を使うのが嫌いだから、その時々で、こういう人間でありたいという希望を添えて、通称名を考えてきた。
が、なかなかその名前を使う機会がないのだ。
これまで、通称名で呼ばれていたことは、東京時代と出版社で働いていた時くらいしかなかった。
詩の投稿や、音楽のオーディションを受けた時は、本名を書く規約になっていたため、せっかく考えたペンネームや芸名も無駄になった。

今ぼくは、大変気に入った名前を一つ持っている。
出来たら公表したいと思っているのだが、なかなかその機会がない。
機会がないから、自分の中だけで、その名前を使うことにしている。
政府は、創氏改名を許してくれんかなあ。


昨日、井筒屋のブックセンターに電話をかけ、本のページ抜けのことを言った。
「それは申し訳ありません。交換致しますので、持ってきて頂けませんでしょうか」
「小倉まで遠いんですよねえ。黒崎店で交換というわけにはいきませんか?」
「黒崎店がご希望ですか… じゃあ後ほど電話します」

しばらくして黒崎店から電話が入った。
「小倉店で買われた本が乱本だったということですが」
「はい」
「その本はうちにありますので、こちらで交換させてもらいます」
よかった。
小倉までJRで行くと、往復720円もかかってしまうのだ。
本を交換する、たったそれだけのことで交通費を遣うのも馬鹿らしい。

ということで、今日は黒崎のブックセンターに行った。
本の交換を済ませたあと、時間が余ったので、しばらく立ち読みしていた。
何を読んでいたかというと、占いの本である。
前々から自分の運命に関して、知りたいと思ったことがあったからだ。
そこにあった、何冊かの四柱推命の本を手にとって、読みあさった。

「やっぱり…」
最近、行き詰まりというか、仕事が向いてないのではないかという思いが強くなったのである。
いや、仕事が向いてないのではなくて、企業に向いてないのではないかという思いである。
どうも集団に溶け込めないのだ。
そこで、占いの本を見て確認したかったのだ。
本を見ると、ちゃんとそのことが書いてあった。
『孤独な星』
『集団の中では浮いてしまい、変わり者に見られる』
『どちらかというと企業向きではない』
『一人でやる仕事、とくに芸術や文学方面に向いている』
どの本にも、似たり寄ったりのことを書いてある。
芸術や文学に向いているかどうかはわからないが、企業に向いてないのは確かなようだ。

『孤独な星』
親兄弟や子供と縁が薄いと書いてある。
なるほど、その通りである。
幼い時に父親を亡くし、そのため兄弟はおらず、さらに子供もいない。
どうも、ぼくは四柱推命どおりの運命をたどっているようだ。
となれば、芸術や文学方面というのも、案外当たっているのかもしれない。
人生の後半に、そういう芸術・文学の星がかかっているから、もしかしたら、これからそういう道を歩むのかもしれない。
こうなれば、孤独なんか気にしないで、芸術や文学に突っ走ってみるか。


「CD-ROMが作れない!」
そうなると、回復コンソールが実行出来ない。
となると、パソコンは回復しない。
さらに困ったことに気が付いた。
セットアップ用のCD-ROMがないということは、当然リカバリが出来ないということだ。

これはどうにかしないと。
ということで、伊勢丹に行ったついでに、井筒屋のブックセンターでトラブルシュータの本を購入した。
この本には、そういうトラブルに関しての対処法がわかりやすく書いてあった。
JRで帰る途中に、関連のページを真剣に読みあさった。

ところが、良くない時は良くないことが重なるものである。
その回復コンソールのことが書かれているページが、何と半分以上も飛んでいたのだ。
JRを降り、さっそくブックセンターに電話した。
ところが、何度呼び出しても出ない。
時間は午後7時20分頃だった。
普段井筒屋は午後8時まで開いている。
きっと電話の近くに人がいないのだと思い、ぼくはしつこく電話を繰り返した。
しかし、何度かけても誰も出ない。

しかたがないので、同じブックセンター黒崎店に電話した。
黒崎店はすぐに出た。
「今日小倉店でパソコン関係の本を買ったんですが…」と、ことのあらましを説明して、「小倉店に何度も電話するんですけど、誰も出ないんですよ」と言った。
「ああ、小倉店は棚卸しのため、今日は7時の閉店なっています。明日も引き続き棚卸しになっているので、申し訳ありませんが、明後日おかけ直し下さいませんか」
「ああ、棚卸しなんですか。それじゃあしかたないですね。わかりました。明後日電話します」
棚卸しの時に、こんな電話をかければ迷惑だろう。
いちおう同業者なので、このへんは理解している。

ということで、家に帰ってから、再びネットで調べることにした。
すると、そこでMBRの復旧には回復コンソールだけではなく、起動ディスクでも有効だという記事を発見した。
「そうか、起動ディスクも有効なのか」
さっそくぼくは、近くの店にフロッピーディスクを買いに行き、起動ディスクを作ることにした。

ところが、新しいフロッピーのはずなのに、なぜかディスプレーに『このディスクは使えません』という表示が出た。
「不良品か?」
そう思ったぼくは、他のフロッピーを入れてみた。
しかし、これも『使えない』という表示が出てくる。
結局5枚やってみたのだが、全滅であった。
「おかしいなあ。もしかして、機械がおかしいのか?」
そこまで考えて、ふと思い出したことがあった。
ぼくはこのパソコンで、フロッピーを使ったことが一度もないのだ。
ということは、ヘッドが汚れているのかもしれない。
そこで機械の中を覗いてみると、なんと埃がたまっているではないか。
「やっぱり…」
こうなればフロッピークリーナーが必要になってくる。
とはいえ、もう午後10時を過ぎている。
開いている店はあるのだが、そこまで行く気力が残っていない。

ということで、この日は断念した。
翌日も、いろいろやってみたがだめで、結局WindowsXPを買わざるを得なくなった。
たった一つの無料ソフトが、えらく高くついてしまったものだ。

さて、XPを仕入れ、すぐに回復コンソールを実行した。
復旧までの時間は、わずか5分だった。
今までの苦労は何だったのだろう。
それもこれも、ぼくのパソコンコンプレックスから来ているのだ。
もう少しパソコンに自信を持っていたら、今回のトラブルも防げたのかもしれないのだ。
ぼくはコンプレックスのせいで、黒い画面が出ると焦ってしまい、あげくに電源を切ってしまうことがよくある。
おそらく、今回のトラブルもそうしたことから起きたのだろう。
パソコンというものは、新しい物好きのコンプレックス持ちには、不向きな機械なのかもしれない。


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