頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

2007年08月

今日で夏も終わり。
昨日も言ったように、今年の夏にはうんざりした。
ただ暑いだけで、まったく風情というものを感じなかったのだ。
こういうことは生涯二度目である。

一度目は、今から27年前、昭和55年(1980年)の夏だった。
その年は今年と全く逆で、冷夏だった。
梅雨明けしてから一週間だけ夏らしい日があったが、その後は夏空を分厚い雲に奪われてしまい、まったく気温が上がらなかったのだ。
その年社会に出たぼくは、その時期エアコンを売っていた。
エアコンは気候に左右される商品である。
暑くないと売れない。
それゆえに、空を眺めては恨めしく思っていたわけだ。

さて、今年風情を感じなかった原因の一つに、彼の国からはき出される公害がある。
いつも臭かった。
そのニオイを灼熱の太陽が焦がす。
だから、なおさら臭くなる。
その臭さが、夏独特のニオイを隠してしまう。
だから、風情を感じないのだ。
来年はもっといい夏にしたい、というかしてほしいものだ。


ここ2,3日、雨が降ったおかげで、だいぶ涼しくなった。
夏が終わるのは嫌なので、本来ならこういうことは書かない。
そういうぼくが、こんなことを書くくらいだから、今年の暑さにはほとほとうんざりしているのだ。
昼間はまったくクーラーを入れないし、おまけにウォーキングまでやっているので、すごく汗をかく。
シャツやパンツは当然だが、ズボンも雨に濡れたようにビッショリになっている。

さて、そのウォーキング、毎日真昼時に、帽子もかぶらずに外を歩いているわけだが、よくそれで熱中症にかからないものだと、我ながら感心している。
きっと日陰を選って歩くようにしているのがいいのだろう。
日なたが無茶苦茶暑いから、その分日陰が涼しく感じる。
さらに水分を適度に摂っているから、のどが渇くこともない。

他に考えられることは、風を意識して歩くことくらいか。
最初はそう感じなかったのだが、ある時から、風が吹きつけるたびに「風が気持ちいい」と口に出して言うようにした。
それからだ、俄然風が涼しく感じるようになったのは。
それ以来、暑さでだんだん歩くのに嫌気が差してきても、それを口にすることで、元気が蘇るようになったのだ。
これも、言葉の魔法なのだろう。


日曜日、嫁ブーの実家の夕食に呼ばれた。
行ってみると例の干物の姪がいた。
すでに食事は始まっていて、姪はポイポイと口の中におかずを放り込んでいた。
姪と会うのは4月以来だ。
あの頃は長袖を着ていたせいで、そこまで太っては見えなかったのだが、今回はタンクトップである。
充分に脂がのった、たくましい肩が、露わになっていた。

食事が終わった後、きつかったのか、ジーンズからジャージに履きかえていた。
「あー、楽になった」と言いながら、ソファに横たわった。
「Nちゃんは、小学生の時から何も変わってないのう」とぼくが言うと、姪は「えっ、そうかねえ?」と言う。
「小学生の頃も、食事の後ジャージに履きかえて、『あー、楽になった』と言いよったやん」
「言ってないよー」
「いや言った。で、いつ行っても、今みたいに家でゴロゴロしとった」
「起きとったよう」
「学校から帰っては寝、塾から帰っては寝、部屋は散らかしっぱなしやし」
「‥‥」

それでも姪は、ソファから起き上がろうとせず、ゴロゴロしていた。
「よし、今度ジャージ買ってやろう」
「えっ?」
「ゴロゴロするのに必要やろ」
「…うん」
「アディダスとデサント、どっちがいい?」
「どっちでもいいよ」
「三本線でいいやろ」
「お任せします」
ということで、今、アディダスの三本線ジャージを探している。


土曜日、笑笑で飲みごとがあった。
この店に行くのは初めてだったのだが、店の雰囲気も悪くなかったし、食べ物もまあまあだった。
何よりもよかったのは酒類で、飲み放題のビールは、ぼくの好きな一番搾りだった。
さらによかったのが酎ライムで、これがおいしくて、何杯でもいけるのだ。
よく憶えてないが、ビールをジョッキ3杯、酎ライムは10杯以上は飲んだと思う。

普段ならこれだけ飲めば、二次では飲まないようにしているのだが、その日は違った。
どんどん入るのだ。
スナックに行ってウィスキー水割りを3杯、最後にラーメン屋でビール大ビンを一本を飲んだが、まったく無理なく飲めた。
もちろん翌日の二日酔いは覚悟しておいた。
ところが、今回はそれもなかったのだ。

毎日のウォーキングがよかったのか、タバコをやめたのがよかったのか、はたまた毎日飲んでいるビタミンCがよかったのかは知らないが、この歳になってこれだけ酒が飲めるとは思ってなかった。
しかもおいしく飲めるなんて、まるで夢のような気分だった。
その日は、そこから新しい人生が始まるような気さえしたものだ。


24日の日記に、中学生の頃に尊敬していたのは東郷平八郎で、部屋の壁に日の丸を貼りつけ、その横に東郷元帥の写真を額に入れて、いつも拝んでいたと書いた。
で、高校に入ってから、その日の丸や額が、吉田拓郎やボブ・ディランのポスターに替わったわけだが、べつに拓郎やディランが尊敬する人というわけではなかった。

そういう人たちの反戦歌を聴いたり歌ったりしながらも、尊敬するのは、相変わらず東郷元帥だった。
その証拠に、高1の夏休みに東京に行った際、明治神宮を参拝したあと、ちゃんと東郷神社にお参りしている。
東郷神社というのはこちら福岡にもあって、日本海海戦の戦場が一望できる山の上に建っているが、ここにも一度お参りしている。
歴史を知れば知るだけ、あの戦いがどれだけ重要なものだったのかがわかってきた。
それでさらに尊敬の度合いが強くなったわけだ。

中学の頃だったが、クラスで尊敬する人というのが話題になったことがある。
それでぼくは、東郷平八郎の名前をあげた。
他の人も、それぞれに尊敬する人をあげていた。
ところが、中に「何で親を尊敬しないんだ?」と意見する人がいた。

「親がいなかったら、生まれてこなかったわけでしょ?親を尊敬せんで誰を尊敬するんね?」
「あんたの言い方だと、親以外尊敬したらいけんということになるやん。それなら最初から尊敬する人などという言葉なんかいらんやろ」
「だから親を尊敬しとけばいいやん」
「それじゃノーベル賞は取れんやろ」
「何で?」
「親を尊敬するということは、親を目標にするということやん」
「親を尊敬してもノーベル賞は取れるよ」
「ふーん、じゃああんたの親はノーベル賞を取るくらい偉い人なんやね。立派、立派」
その後、「お前は素行が悪い」「おまえの方が悪い」と互いのけなしあいになってしまい、わけのわからないまま議論は終わってしまった。

今だったら「価値観の違い」という言葉一つで片付くのだが、当時は誰もそういう言い回しを知らなかった。
というか、まだ個性だの価値観だのいう時代ではなかったのだ。


昨日宮若市を通過している時にふと思ったのだが、夏というと小学生の頃、それも夏休みの思い出が圧倒的に多い。
もちろん中学や高校の頃にも夏休みはあったのだが、さほど思い出は残っていない。

何でそういうことを思ったのかというと、ぼくは小学3年生の夏休みに一度、中学2年生の夏休みに一度、その宮若市(旧若宮町)を訪れている。
小学生の頃は、子供会のキャンプで千石峡という渓谷に行ったのだが、その時のことは今でも鮮明に憶えている。
で、中学生の頃は、歴史の勉強で竹原古墳という装飾古墳に行ったのだが、その時のことは、というかそこに行ったことさえ、長い間忘れていたのだ。

そういえば、海やプールに行ったことだって、夏休みに見たアニメだって、小学生の頃の記憶の方が鮮明である。
夏になると、少年のような気持ちになるのは、きっとそのせいだろう。


いつものようにオナカ君とチャンポンを食べに行った。
今日は直方市のドライブインで食べた。
その帰り、飯塚から宮若を経由して帰ったのだが、そこで意外な音を聞いた。
ミンミンゼミの声である。
前にも書いたが、もうこのへんには生息していないと思っていたのに、いるところにはいるのだ。
ただ、それを聞いたのは山間部だけだった。
山を下りた時には、こちらと同じようにアブラゼミやツクツクボウシの声しか聞こえなかった。

何で北九州にミンミンゼミがいなくなったのかということを、車中オナカ君と話していたのだが、「おれたちが若い頃にミンミンセミを採り過ぎたせいじゃないか」ということになった。
つまり、セミといえばミンミンゼミだったから、そればかり選って採ってしまい、平野部では絶滅してしまった。
一方、アブラゼミやクマゼミは、当時箸にも棒にもかからなかったから、今でも残っている。
ということにしておいて、この話は終わった。
そういうわけで、とりあえず来年の夏まではこの説で行こうと思っている。


ぼくが中学生の頃に尊敬していたのは、東郷平八郎だった。
部屋の壁に日の丸を貼りつけ、その横に東郷元帥の写真を額に入れて、いつも拝んでいたものだ。
しかし、それも中学時代までで、高校に入り音楽を始めてからは、日の丸も東郷元帥も外してしまい、代わりに吉田拓郎やボブ・ディランのポスターを貼っていた。

社会に出てからは、さすがにポスターは貼らなくなり、また額に戻った。
だが、その時額に入れていたのは、東郷元帥の写真ではない。
竹久夢二の美人画であり、水墨画であり、般若心経であった。
仕事が殺伐としていたので、心を落ち着けるものを飾っていたわけだ。

その後しばらく何も貼ってなかったが、新聞屋さんからホークスのカレンダーをもらうようになってからは、それを貼るようになった。
けっこう大きなカレンダーだったので、見栄えもよかった。

ところが最近その新聞屋さんは、ホークスのカレンダーをくれなくなった。
というか、ソフトバンクに変わってから、手に入らなくなったのだろう。
いちおう年末にはカレンダーを持ってくるのだが、それは便所の壁に貼るような小さな風景カレンダーだ。

しかたなく現在は、防災情報マップなんかを貼っている。
地図は白黒もので色気がなく、さらに壁と同色ときているので全然見栄えがしない。
やはり色気のあるポスターを貼ったほうがいいか。
とはいえ、今さら拓郎のポスターなんかは貼りたくないし、もう売ってもないだろう。
そういえば、前にキャンディーズのCDセットを買った時に、プレミアムでポスターがついていたような気がする。
あれを探し出して、貼っておこうかな。


ネットでいろいろな会員の登録をしているが、その都度悲しく思うことがある。
それは生年月日の欄だ。
今は直接書き入れるヤツよりも、プルダウンで選ばせるのが多くなっている。
それはいいのだが、そこをクリックした時に、最初に出てくるのがいつも1970年以降なのだ。
そのため1957年生まれのぼくは、年を遡らなければならない。
そうやるだけでも、何か自分たちの時代が終わったような気にさせられてしまう。

中には1900年からスタートするヤツもある。
これで年を入れる時には、年を進めて行けばいいのだから、「おお、まだ若い」という気になり、何か気分がよくなって、どんどん登録しましょうという気にもなるものだ。
こういう生年月日一つ入れるのにも、気遣いが必要ということである。


shirasagi.jpg

いつもウォーキングしている時に、こいつだけは撮っておきたいと思う被写体が二つある。
その一つが時々見かけるこの鳥だ。
ぼくが見かけた時、いつもこの鳥は川の中の魚を狙っている。
猫と同じように、ジッと構えているのだ。
隙あらば魚を拾い上げるのだろう。

ただこの鳥は猫のように間抜けではない。
猫は獲物を狙う時は無防備になることが多い。
そこを狙われ人間に抱きかかえられ、嬉しくもない猫かわいがりをされるわけだ。
しかし、この鳥は違う。
獲物を狙っている最中にも、周囲に神経を払っている。
ぼくのとの距離がかなりあっても、ぼくが写真を撮ろうと立ち止まった瞬間に、もう逃げる準備をしているのだ。
携帯を向けると同時に逃げたり、遠のいたりする。

おかげで、いつもいい写真が撮れないでいた。
とにかく色が周囲と同化しているし、ズーム機能に限界があるので小さくしか写らない。
今日の写真はたまたまである。
目一杯ズームインしたせいで画像が汚くなったものの、周囲の色と区別がつき、この大きさの画像が撮れたわけだから、ぼくとしては満足している。

ところで、もう一つの被写体は何かというと、カメである。
同じ川にいるのだが、昨日と一昨日、二日続けて見た。
それで写真を撮ってみたのだが、上記の通り携帯のズーム機能のせいで、小さなゴミが浮かんでいるようにしか見えないのだ。
ある人にこの写真を送ってみたのだが、「カメムシですか?」という返事が来た。
それで、また撮り直しということになったわけだが、あいにく今日は見つからなかった。

まあ、この携帯だから、よほど近寄って撮らないと、満足がいく大きさにはならないだろう。
とはいえ、近寄るには川の中に入っていかないとだめだし…。
やはり高性能のズーム機能を持つ携帯が出るまで待つか。
しかし、その頃にはもうカメはいなくなっているかもしれん。


昨日に引き続き、今日も修理屋さんが来てくれた。
ぼくの車はけっこう大きいので、昨日つけた中古のバッテリーでは充分ではないらしい。
で、車に合ったバッテリーと取り替えたのだ。

取り替えたあとに、9月に予定している車検の話をしていたのだが、その時、ぼくはエアコンが故障しているので、出来たらこれだけでも直せないか聞いてみた。
すると修理屋さんは、エアコンのスイッチを入れたり切ったりして調べていた。

「ああ、2年前と同じ症状やね」
「ええ、あれからずっとこの状態なんですよ」
「これじゃあ昼間なんか乗れんねえ。この車、どのくらい走っとるんかねえ?」
「15万キロくらいだったと思いますけど」
「15万キロか、替えた方がいいかもしれんねえ。エンジン音もおかしいし」
「新車にですか?」
「いや、新車を買うまでの繋ぎとして、車検代くらいで買える中古」
「あるんですか?」
「メーカーにこだわらんかったらあると思うけど」
「メーカーは別にかまわんですよ」

ということで、中古車を探してもらうことにした。
でも車検代程度で、ちゃんとした車なんかあるんかなあ。
前に2万円の車を見たことがあるが、それは酷いものだった。
ま、それよりはいいだろうが。


このページのトップヘ