頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

カテゴリ: 想い出の扉

家から小学校に行く途中に、ぼくの通った保育園がある。
その保育園の入口まで、歩いて3分程度だろうか。
昔は実家から通っていたが、その実家から保育園までは、今のぼくの足で8分程度だ。
距離にすると、800mくらいだ。
大した距離ではない。

ただ、幼かった当時のぼくの感覚からすれば、けっこう遠くに感じていた。
それに加えて、集団登園でダラダラ歩くものだから、20分近くかかっていたような気がする。
20分を今の感覚に換算すると、2km位だろう。
保育園時代の思い出は、なぜか冬のものが多いが、それはきっと、平均温度が今よりもずっと低かった頃の、厳しい冬の寒い中を感覚2km、つまり20分歩かされていたせいだと思っている。

ところで、今ぼくが住んでいるところは、実家よりもずっと保育園寄りにある。
歩いて3分程度の距離だ。
ところが、その3分が遠くに感じるのだ。
しかも、保育園の入口付近を歩く時は、真夏でも、寒い雰囲気を感じる。
これも、幼い頃の「感覚2km」や「寒い冬」のイメージがついてしまっているせいなのだろう。


33年前の今日、長嶋の引退試合があった。
例の「我が巨人軍は永久に不滅です」と言った日だ。
その日、ぼくは高校の修学旅行中で、富士急ハイランドに泊まっていた。
友だち(男)とジェットコースターに乗りまくり、ホテルに帰ってきたらロビーに人がたかっている。
何だろうと覗いてみると、ちょうどそのセリフのシーンだった。
巨人や長嶋なんてどうでもよかったので、別に何ということもなかった。

それよりも、野球部のレギュラーだった友人のオナカ君が、園内のバッティングセンターで三振したことのほうがショックが大きかった。
誰かが「おまえ、そんなことで甲子園に行けると思っとるんか?」と言うと、オナカ君は「いや、ここの球はすごく速い」と言い訳していた。
それを聞いて、「うちの学校は永久に甲子園行きはない」と思ったものだった。
今のところ、その予想は当たっている。


夏休みの終わり頃、デパートや量販店に行くと、決まって『引き潮』だとか『避暑地の恋』といったBGMが流れていた。
それまでは、ずっと陽気なハワイアンなんかが流れていたのに、突然そんな物悲しい音楽が流れ出すと、幼いながらも夏の終わりを意識せざるを得なかった。

さらに、何日か前まで店内に飾ってあった氷柱は姿を消し、早くも紅葉のディスプレイになっている。
店はすでに秋模様なのだ。
ただでさえ夏や夏休みが終わるといって悲しんでいるのに、この仕打ちは酷いものだと思ったものだった。

外に出ると、「ワシワシ」だとか「ミンミン」だとかいう声は消え、「ツクツクボーシ」の大合唱だ。
その合唱に混じって、甲高いコオロギの声が聞こえてくる。
「ああ、もう夏は終わりだ」と、実に寂しい気持ちになって、街を後にするのだった。

フォークリフトに気を取られて忘れていたが、この日記の最終回まで二ヶ月を切っていた。
そのため、ちょっと時機を逸した感があるが、来年の夏には日記を書いてないだろうから、夏の思い出を書いてみた。

ところでその最終回の日、この夏の終わりのような、もの悲しさを感じているのだろうか?
それとも、日記から解放された喜び一杯でいるのだろうか?
今時点では、それが読めない。
その日は、『引き潮』や『避暑地の恋』だけは部屋で流さないようにしておこう。


嫁ブーが言っていたが、今日電池ボックスを買いに来た小学生がいたらしい。
今日電池ボックスを買ったということは、まだ何もやってないのと同じである。
宿題の提出は明日なのに、今まで何をやっていたのだろう。
しかも、期間は一日、いや半日しかないが、いったい何を作る気なんだろう。

そういえば、ぼくが小学生の頃も、電池ボックスを利用したものを作ってきたのが何人かいた。
誰もが、色を塗ったりして、いちおう手間暇かけましたみたいな工作をしているのだが、中にはお手軽な工作をしてくるのもいた。
何とカマボコ板の上に電池ボックスと、豆球を置き、それを輪ゴムで止めているだけなのだ。
ぼくが「それは何か?」と聞くと、彼は即座に「信号機」と答えた。
友だちが「何の信号機か?」と突っ込むと、彼は「信号機は信号機やろ」と言いながら、泣きそうな顔をして逃げて行った。
あとで友だちと、
「あれ絶対、昨日一日で作ったはず」と笑ったものだった。

あ、そうか。
もしかしたら、嫁ブーの所にきた小学生も、信号機を作るのかも知れんなあ。


24日の日記に、中学生の頃に尊敬していたのは東郷平八郎で、部屋の壁に日の丸を貼りつけ、その横に東郷元帥の写真を額に入れて、いつも拝んでいたと書いた。
で、高校に入ってから、その日の丸や額が、吉田拓郎やボブ・ディランのポスターに替わったわけだが、べつに拓郎やディランが尊敬する人というわけではなかった。

そういう人たちの反戦歌を聴いたり歌ったりしながらも、尊敬するのは、相変わらず東郷元帥だった。
その証拠に、高1の夏休みに東京に行った際、明治神宮を参拝したあと、ちゃんと東郷神社にお参りしている。
東郷神社というのはこちら福岡にもあって、日本海海戦の戦場が一望できる山の上に建っているが、ここにも一度お参りしている。
歴史を知れば知るだけ、あの戦いがどれだけ重要なものだったのかがわかってきた。
それでさらに尊敬の度合いが強くなったわけだ。

中学の頃だったが、クラスで尊敬する人というのが話題になったことがある。
それでぼくは、東郷平八郎の名前をあげた。
他の人も、それぞれに尊敬する人をあげていた。
ところが、中に「何で親を尊敬しないんだ?」と意見する人がいた。

「親がいなかったら、生まれてこなかったわけでしょ?親を尊敬せんで誰を尊敬するんね?」
「あんたの言い方だと、親以外尊敬したらいけんということになるやん。それなら最初から尊敬する人などという言葉なんかいらんやろ」
「だから親を尊敬しとけばいいやん」
「それじゃノーベル賞は取れんやろ」
「何で?」
「親を尊敬するということは、親を目標にするということやん」
「親を尊敬してもノーベル賞は取れるよ」
「ふーん、じゃああんたの親はノーベル賞を取るくらい偉い人なんやね。立派、立派」
その後、「お前は素行が悪い」「おまえの方が悪い」と互いのけなしあいになってしまい、わけのわからないまま議論は終わってしまった。

今だったら「価値観の違い」という言葉一つで片付くのだが、当時は誰もそういう言い回しを知らなかった。
というか、まだ個性だの価値観だのいう時代ではなかったのだ。


「みんみんみんみん、せみがなく
もくもくもくもく、くもがわく
もうすぐたのしいなつやすみ」
ぼくが小学校1年の夏休み前に、国語で習った文章だ。
戦後に入ってからは国定教科書ではなくなったので、その教科書会社で掲載している文章が違うと思う。

他に、この時期に習ったもので憶えているのは、「小さい白いニワトリ」くらいだ。
「小さい白いニワトリ」というのは、ブタ、ネコ、イヌとニワトリの出てくる物語で、ある時パンを作ろうという話になった。
ところが、「ブタはいやだと言いました。ネコもいやだと言いました。イヌもいやだと言いました」と誰も自分が作るとは言わない。
しかたなくニワトリは、ひとりでパンを作った。
さて、パンができた。
で、ニワトリはみんなに聞いた。
「このパン、誰がたべますか?」
すると、「ブタは食べると言いました。ネコも食べると言いました。イヌも食べると言いました」とみんな食べると言う。
それを聞いた「小さい白いニワトリは、このあと何と言ったでしょう」。
そこでこの物語は終わっていた。
記憶が曖昧なので、一字一句は間違っているかもしれないが、あらすじはこれでよかったと思う。

先生はみんなに尋ねた。
「ニワトリは、いったい何と言ったんでしょうね?」
指された生徒のほとんどが、
「『あんたたちにはやらん』と言った」と答えていた。
「『あんたたちは誰も手伝おうとしなかったくせに』とか文句を言いながらも、ニワトリはみんなに分けた」と言う生徒も中にはいた。

で、先生の言った答は何だったのか、それが今となっては思い出せない。
が、確かニワトリは文句一つ言わずに、気持ちよくパンをみんなに分けたのではなかっただろうか。
そういうのが、あの頃の一般的な教育だったし、おそらくそれが正しいと思う。

さて、これが今なら、どういう答が正しいとなるのだろう?


オロナミンCを初めて飲んだのは、小学校6年の時だった。
当時、巨人の星のスポンサーが大塚製薬で、いつも大村崑がオロナミンC片手に「おいしいとメガネが落ちるんですよ」と言っていた。
あれを見るたびに、一度飲んでみたいものだと思っていた。
だが、値段が高かった。
確か100円近くしていたと思うが、一日の小遣いが10円20円程度の小学生には到底買える代物ではなかった。
そこで、せめて気分だけでもと、容器が似ているベビーコーラを飲んでいたのだった。

その年の秋のこと、母の会社のバスハイクがあり、ぼくはそれについて行った。
会社の人たちが持ってきたクーラーボックスには、ビールやジュースがたくさん入っていた。
ぼくはその中にオロナミンCが入っているのを見つけた。
一人のおじさんが、
「しんた君は何を飲みたいね?」と聞くので、
ぼくはすかさず、
「オロナミンC」と答えた。
ようやくぼくは、念願のオロナミンCを飲むことが出来たのだ。

初めて飲むオロナミンCは、少し酸味がかって、甘かった。
こういう味を味わうのは生まれて初めてで、それまでに飲んだどのジュースよりもおいしく感じたものだった。

それから十数年経ち、ぼくは毎日のようにオロナミンCを飲むようになった。
ところが、小学生の頃に味わった感動が感じられない。
全然味が違うのだ。
これまですっと、量産するようになったので、味も変わったのだろうくらいに思っていた。
しかし、そうではなかった。
そのことに気がついたのは今日である。

今日、およそ1年ぶりにオロナミンCを口にした。
何の気なしに飲んでいたのだが、飲んでいくうちに真顔になった。
小学生の頃に味わった味に戻っていたのだ。
しかしおかしい。
味が変わったなんて聞いたことがない。

思い当たることがある。
前に飲んだのは、タバコを吸っていた頃だ。
ぼくは、オロナミンCをいつもタバコの友として飲んでいた。
ということは、タバコの味がミックスされてオロナミンCを飲んでいたわけだ。
だから、成人後は昔のオロナミンCの味がしなかったのだ。
そういうわけで、いよいよ禁煙がやめられなくなった。


マグマ大使には、フォーリーブスの江木敏夫が出ている。
困った時にマグマ一家を呼ぶという重要な役で、露出度からするとほとんど主役のようなものだ。
この頃からジャニーズは、今のようにメンバーに主役を張らせていたわけだ。

さて、その江木だが、ぼくはこれまでマグマ大使のドラマが終了した後に、フォーリーブスに参加したと思っていた。
ところが調べてみると、マグマ大使が始まったのは昭和41年7月で、フォーリーブスの結成は同年10月になっている。
ということは、ほとんど同時進行だったということになる。

それを調べている時に、これまで気にもしてなかった江木の歳を初めて知った。
昭和27年生まれで、ぼくより5つ上だ。
マグマを見た限りでは、ぼくとあまり年が離れてないような気がしていたが、実はあの時、もう14歳になっていたわけだ。
歳がわからなかった原因は、ぼくに見る目がなかったのではなく、あの幼い顔と半ズボンにあったと思う。
マグマを見た限りでは、とても14歳には見えない。

ところで、マグマを見ていると、江木は七三分けしている。
髪の薄い人が、サイドの髪を無理矢理上に持ってくるような分け方で、えらくおっさん臭く見えるのだ。
童顔に薄毛分け。
昔からぼくは、マグマ大使の中の江木に対して違和感を持っていたが、こういうところに理由があったのかもしれない。


今月からスカパー!で、『マグマ大使』をやっている。
もちろんオリジナル版、ぼくが小学3~4年生の頃に放映していたものだ。
マグマ大使は、あの頃のぼくの憧れで、オープニング曲を聴くと、今でも勇気がわいてくる。
同時期にウルトラマンをやっていたのだが、なぜかぼくはウルトラマンには興味を抱かなかった。
おそらくは、人間離れしたあの目が嫌いだったからだと思う。

さて、マグマ大使だが、今日ようやく、先日録画していた第一話を見た。
最初は胸躍らせて見ていたが、そのうちだんだん情けなくなってきた。
マグマがえらくちゃちなのだ。
ガムにいたってはさらに酷く、まるでグリコのおまけである。
また、それらロケットが空を飛ぶ時は妙な揺れ方をしているし、これまでは模型だと思っていた箇所が、実はマンガだったりしたのだ。
小学生の頃、ぼくはこんなちゃちなロケットが、マンガの上を飛ぶようなにドラマに目を輝かせていたわけだ。
CGに慣れた現在の目で見ると、あれはお笑い以外の何ものでもない。

ところで、このドラマの悪役はゴアであるが、初めてゴアの顔を見た時のインパクトはすごかった。
怖ろしくて夢にまで出てきたのだ。
あの顔は、ぼくが持っている悪役のイメージの中でナンバー1だろう。

余談だが、オーム真理教の麻原彰晃を初めて見た時、ぼくはすぐにゴアを思い浮かべた。
おそらく「こいつは悪役だ」と直感的に思ったのだろう。
ところが、今見直してみると、麻原の顔はゴアではなく、アース(マグマの生みの親)のほうに似ているのだ。
どこかで記憶が混線していたのかもしれない。


小学生の頃、一度だけ大雨のために休校になったことがある。
夜中から降り続いた雨が、朝になっても降り止まず、在校生の何人かの家が被害に遭ったらしいのだ。
休校が決まったのは、朝の8時過ぎで、すでにぼくたちは学校に向かっている途中だった。
傘をさした小学生が、ゾロゾロとこちらに向かって歩いてくる。
「どうしたんか?」と聞くと、「今日学校休みになったぞ」と言うではないか。

学校と思っていたのに休校になったので、嬉しいことこの上もなかったが、大雨が降っているので外には出られない。
当時は電話が普及してなかった時代で、友だちと連絡をとることもできない。
テレビではくだらんメロドラマをやっているので、見る気も起きない。
すでにその週の少年サンデーは読んでいたし、一人で遊ぼうにもゲームもないしで、実に退屈だった。

「あーあ、こんなに退屈な休みなら、学校があったほうがよかった」と思っている時だった。
あれだけ降っていた雨がピタリと止み、晴れ間まで出てきたのだ。
時間は10時半ぐらいだったと思うが、それから広場に子どもが次々と出てきた。
とはいえ広場は雨でぬかるんでいる。
では何のために出てきたのかというと、プラモデルで遊ぶためある。
何のプラモデルかというと、軍艦や潜水艦だ。
広場の周りには排水溝があったのだが、そこまで水が汚れてなく、浅かったので、軍艦や潜水艦を浮かべるのに都合がよかったのだ。

ぼくのお気に入りのプラモデルは、当時マンガで大ヒットしていた『サブマリン707』だった。
遊ぶ場所が場所なだけに、コンクリや石にぶち当たって、すぐに壊れる。
そのため、もっと頑丈なのをとは思っていただが、なぜかいつも同じのを買い直していた。
最初は細かいところまで丁寧に作っていたが、そのうち面倒になり、細かいところは作らないようになった。
さらに本体を固定させるために、接着剤ではなく輪ゴムを使うようになった。

ところで、排水溝で遊んだ後、家に持って帰った潜水艦をどうするのかというと、風呂場に保管しておいて、風呂に入った時にまた遊ぶのだ。
保管すると言っても、洗面器の中にポンと入れておくだけだ。
プラモを洗った記憶などないから、きっと風呂水は汚れていただろう。


カメで思い出したことがある。
10年ほど前に、親戚の姉ちゃんが病院からもらった精神安定剤の薬害に遭ったことがある。
急に言動がおかしくなり、自殺をほのめかしたりしたのだ。
慌てた家の者が、「助けてくれ」と電話をかけてきた。
さっそく行ってみると、包丁を手に持ち、それを自分の首筋にあて、わけのわからないことを口走って騒いでいた。
こちらが何を言っても答えようとしない。
というより、ぼくたちが誰なのかがわかってないのだ。

とりあえず、相手の気を落ち着かせねばならない。
が、こういう時どうしていいかわからない。
挙げ句の果てにとった方法が、ビンタだった。
そして大声で怒鳴りつけ、相手が大人しくなったところで包丁を取り上げた。
すると、本人は安心したように眠ってしまった。

その後ぼくは、家にある包丁を全部隠し、ガスの元栓を閉めた。
もし目を覚まして、また騒ぎ出したら困るからだ。
そうしている時だった。
テーブルのほうから、「カリカリ、カリカリ」という音が聞こえてきたのだ。
電気を付けて見てみると、何とそこにカメがいた。
カメは2匹いて、どちらも体長は20㎝ほどだった。
その2匹が小さなプラスチックの水槽の中で、重なってもがいていたのだ。

「もしかしたら、今日のことは薬害というより、カメの祟りかもしれんぞ。明日このカメを池か川に放してこい」
そう言ってぼくは帰ったのだが、翌朝さっそく家の者はカメを近くの神社の池に放してきたそうだ。
その効き目なのかどうなのかは知らないが、それ以来、親戚の姉ちゃんは薬害に悩まされることがなくなった。


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