頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

カテゴリ: たまに人生を語る

ずいぶん前から、自分の心の中に、もう一つ殻をかぶった自分があるような気がしてならない。
それが時々、アスファルトを突き破って出てくる雑草のように、その殻を突き破って表に出てこようとしているのだ。
うまく突き破ったら、どれだけ気持ちがいいだろう。
ということで、いつも突き破ろうと努力している。

ところが、なぜか邪魔が入る。
邪魔をするのはいつも決まっていて、常識であったり、大人というしがらみだったり、未知とか未体験への恐れだったりする。

まあ、常識とか、大人とかに依存していれば、普通の人としてやっていけるのだから、別にそれを突き破る必要はないのだが、それでは面白くない。
すでに波瀾万丈の洗礼を受けているのだから、普通の人にこだわる必要もないのだ。
殻の中の人は、そこから飛び出したくて、どうしようもないところまできているようだ。
ドカーンと突き破って、もう少し面白味のある人生を送ってみるか。


「大丈夫」と書いたカードを、部屋のあちらこちらに貼っている。
気落ちした時に見るためだ。
そういうつもりで貼ったのだが、不思議と気落ちする前にこのカードが目に入る。
おかげで気落ちする暇がない。
これは偶然なのだろうか、それとも何者かの計らいなのだろうか。
ものの本によれば、こういう場合は自分の信じる方が正解だということだ。
ということで、ぼくは何者かの計らいだと信じるようにしている。
そう思ったほうが夢があるし、より人生を楽しめる。


これまでぼくの人生にとって必要なことは、すべてこの調子で解決してきた。
会社を辞めた時も自ずとそうなって行ったし、就職が決まった時も自ずとそうなって行った。

そういえば、運転免許を取った時もそうだった。
あの時は、会社から「仕事上必要なので免許を取れ」と言われていたのだが、運転が好きではなかったし、自分の性格が運転に向いてないと思っていたので躊躇していた。
ところが、ある日知り合いから「おまえ運転免許取らんか?」と言ってきた。
その知り合いには、会社から「免許を取れ」と言われているなんて、一言も言ってなかった。
「ちょうど自動車学校が暇な時期で、そこの先生から頼まれたんよ。優先して車に乗せてくれるらしいけ」と言う。
それを聞いて、これは運命だと思い、すぐに手続きをしたのだ。

待つこともなく車に乗れ、免許の取得までさして時間はかからなかった。
流れるように入校して、流れるように卒業でき、流れるように免許が取れたのだった。
最後まで運転に興味を持てなかったものの、そういうふうになっている時というのは、それでも障害なしにうまくいくものなのだ。


一昨日のこと。
夕方から、車に乗って買い物に行ったのだが、まったくエアコンがダメになっている。
時々ハンドルがカクンカクンなって、どうも具合がおかしい。
先日、車屋さんから、「修理を伴う車検を受けるくらいなら、とりあえず新車を買うまで、車検と同額の中古車に乗っておいたほうがいいんやない?」と言われたのだが、こうなったら迷うことなく中古車を買っておいた方がいい。

そうなると車両保険の切り替えもしなければならない。
車両保険は今月が切り替えだから、都合がいい。
と、家に帰ってからすぐに、飲み仲間の一人である保険屋に連絡をとった。
すると、先方はいささか驚いたような声を出した。
「おまえんとこ、ナンバーディスプレイの契約しとるんか?」
「え、そんな契約してないよ」
「いや、5分ほど前に家に電話かけたんやけど、すぐに連絡が入ったけの」
「それは偶然やね。で、何の用やったと?」
「今月、保険の切り替えやろ」
「ああ、そのことね。こちらもそのことで電話したんやけど」

と、中古車を購入する旨の話をすると、「じゃあ、これから会おう」ということになった。
会ったのは家の近くのファミレスで、そこで話をしていると、これまた偶然にも車屋さんから連絡が入った。
中古車をどうするかという話だった。
ぼくが「保険の切り替えも絡んでいるんですよ」と言うと、車屋さんは「ああ、そういうのがあるんやね。けっこう面倒やね」と言う。
「それで今、保険屋さんと話しているんですよ」
「あ、そう。ちょっと替わって」

車屋さんは保険屋さんと話をしてくれ、折り合いが付いた。
ぼくとしては、車屋さんと保険屋さんに、いちいち連絡を取る手間が省けたわけだ。
8月からずっと中古車の件を考えていた。
購入の手続きだとか、保険の手続きだとか、けっこう面倒だと思っていたが、ぼくが買うと決断した日に、そういうことが一気に片付いてしまった。
それも、ぼくの決断から車屋と保険屋の手続きまでにかかった時間は、2時間弱だった。
あとは納車すれば終わりである。
こういうふうに、そうなる時には、こちらが無理をしなくても、不思議とそうなって行くものなのである。


講習が終わった日、家に帰ってから、ぼくは緊張について考えていた。
前に書いたが、柔道や野球の試合だとかカラオケとかでは、緊張で失敗したことがあった。
だが、それは人生において重要なものであったか?
いや、違う。
別に負けても何ということはなかったし、緊張で歌えなくても、その後の人間関係に支障をきたしたことはない。

では、人生を左右するような場面ではどうだったのかというと、そこには失敗の記憶がないのだ。
つまり大舞台では、一度もこけたことはないということだ。
あ、大学には落ちた。
しかし、それはぼくの中ではそれほど重要なことではなかった。
元々合格する気がなかったのだからだ。

ということで、大学受験以外のことは大概うまくいっている。
就職試験も、希望する企業はすべて合格。
自動車免許の時も仮免、本検、学科試験は一発で合格している。
結婚式などで大勢の人の前でスピーチしたり歌ったりする時は、その直前に緊張はあるものの、本番はえらく落ち着いていて、無難にこなしている。
というか、予想以上にウケがいい。

そう考えていくうちに、ぼくは本番に強い人間だという結論に達した。
これまで本番に弱いと思ったのは、緊張のほうに意識が行っていたからだ。
そう思うと、これからの人生に勇気が出てきた。
明日、仮に武道館でコンサートをやったとしても、緊張負けすることはないだろう。
もう大丈夫だ。


かつてぼくは、すべての場面で緊張していた。
学生時代、授業中に先生から「はい、しんた君、次読んで」などと言われるともうだめで、腹は痛くなるし、心臓が口から飛び出てくるような感じがして、うまく読むことが出来ない。
柔道の試合では、緊張のあまりに体が動かず、それでしばしば負けていた。
また野球の試合では、好きに打っているうちはよかったが、コーチからバントのサインが出ると、とたんに緊張してしまい、失敗していた。

社会人になってもそれは治らず、少人数で行ったカラオケでは緊張のあまり腹が痛くなり、その場に座り込んだこともある。
ぼくの人生は、そういう経験の重なりで成り立っているために、自分は緊張負けするタイプで、本番に弱い人間なのだと勝手に思っていた。

フォークリフトは、運転免許の本検のように、講習最終日に実技の試験がある。
そのため、ぼくはかなりの緊張を予想していた。
ところが、本番ではそれがなかった。
いや、あったものの、よくスポーツ選手とかが言っている「いい緊張」といった類のもので、その緊張が妙に心地よい。
そのおかげで、ガチガチにもならず、だらけもせず、本番を終えることが出来たのだった。

何でそういうふうにうまくいったのかというと、考え方を変えたせいだと思う。
これまでは緊張を、自分だけを狙い撃ちしてくる魔物のように思い込んでいたのだが、どんな人でも緊張するのだというのが、今回のフォークリフトの講習でよくわかったのだ。

何人かの経験者がこの講習を受けていたが、初日は全員まったくと言っていいほど様にならなかった。
なぜかというと、「経験者だからうまくやらないと」という思いが、プレッシャーになり、それが緊張に変わったからだと思う。
それを見てぼくは、「やはり緊張しているのは自分だけではない。こういうベテランだって緊張するんだ」と思ったのだ。
そしてそう思ったことで、心が軽くなったわけだ。


十数年前、まだ前の前の会社で働いていた頃だ。
その頃は毎週火曜日が休みで、その前日月曜日はいつも飲みに行っていた。
行きつけのスナックで、歌をうたったり、人の相談に乗ったり、激論を戦わせたりと、けっこう充実した時間を送っていた。

ある時、その店で初めて会った人と意気投合し、一晩中語り明かしたことがあった。
彼は、今で言うIT企業の社長だった。
その日店は満員だった。
ぼくが店に行くと、空いていたのは彼の席の隣だけだった。
ぼくがそこに座ると、彼はぼくの方を向いて、
「あのー、しんちゃんですか?」と言った。
「はい、そうですけど」
「お噂はいろいろ聞いています」
「はあ…」
ということで、ぼくたちはしゃべり始めた。

その頃ぼくは大手の専門店にいたので、仕事絡みの話かと思っていたら、そうではなかった。
その人は自分のやっている仕事の内容を話したはが、それ以外はあまり仕事の話をしなかった。
そのほとんどは、自分の生い立ちや考え方に費やしていた。

話を始めてしばらくして彼は、「しんちゃんってラッキーでしょ?」と聞いてきた。
ぼくはそういう質問を受けたのは初めてだったので、どう受け答えしていいかわからなかったが、とりあえず、「ああ、おれはラッキーですよ」と答えておいた。
すると彼は、「やっぱりね」と言った。
「何で?」と聞くと、「最初見た時から、運の強そうな人だと思った」と言う。

その会話のあった後で、そのことをいろいろと考えていたが、どう考えても、ぼくはラッキーとしか思えなかった。
具体的にどうラッキーかはわからなかったが、とにかくそこまで不可なく生きてこれたし、そこまでの人生に後悔するとことがなかったからそう思ったわけだ。
ということで、彼には嘘をつかずにすんだのだった。

おそらく今でも、同じ質問を受けたら、その時と同じように「おれはラッキーですよ」と答えるだろう。
ここまで不可なく生きてこれたし、ここまでの人生に後悔してないからだ。


ぼくと同じように、毎日神社にお参りに来る人がいる。
きっと願掛けしているのだと思う。
邪魔しては悪いので、その人が来る前にお参りをすませるようにしているが、たまに時間がいっしょになることがある。
その時は、ぼくが早く着いていれば相手が、相手が早く着いていればぼくが、一方のお参りを終わるまで終わるまで待っている。
別に会話を交わして決めたわけではなく、暗黙の了解である。

ま、こういうのは参拝客があまり多くないから出来ることだ。
メジャーな神社ではこういう悠長なことは出来ない。
例えば宗像神社に行けば、いつも複数人の人が同時に参拝している。
もっとメジャーな太宰府天満宮だと、その何倍もの人が同時にパンパンとやっている。

ところで願掛けをやる時、参拝者が複数人いてもいいのだろうか。
神様なのだから、人の多い少ないは関係ないに決まっているとは思うが、何か複数人が同時にパンパンやると、御利益が減るような気がする。
これも人間の持つさもしい性なのだろうなぁ。
宗教戦争も教理だの何だのと小難しいことを言っているけど、案外、発端は人間の持つさもしさにあったのかもしれない。
人間はそこまで小難しい動物ではないんだから。


ぼくはよく「節目」という言葉を使うのだが、その「節目」が「節目」であったためしがない。
というか、そういう時には、必ず何か新しいことが始まると、ぼくは思っているのだが、何も起きたことがないのだ。

例えば21世紀が始まる時に、ぼくはその「節目」を感じていた。
何かワクワクして、いいことがそこに待っているような気がしたものだ。
しかし、何のことはなかった。
ただ2000年12月31日が終わり、2001年の1月1日になっただけだった。
いつもと同じように、年越しそばを食べ、テレビを見ていただけだった。

例えば1999年7の月もそうだった。
ノストラダムスの予言通りなら、この世は終わる。
それなら、この世の終わりを見届けてやろうと思っていた。
ところが、いつまでたっても、恐怖の大王なんて降ってこない。
ただの暑い夏にすぎず、ぼくはいつもの夏と同じように、エアコンを売っていただけだった。

入学した日も、新学期も、終業式も、卒業した日も、誕生日も、成人の日も、就職した日も、退職した日も、はたまた結婚した日でさえも、ぼくが「節目」と思っている時には、何も起きなかった。
ただいつもと同じ一日が過ぎていっただけだった。

この先の予定だが、まず50歳になる日を「節目」と思っている。
あと半年である。
心の奥に「この日に、何かが待っている」と、期待している自分がいる。
しかし、これまで経験したとおりで、ただの一日で終わってしまうだろうか?


昨日は風が強かった。
台風並みに吹いたらしい。
それに黄砂が混じっていたのか、車のフロントガラスがけっこう汚れていた。
そういえば、最近外を歩いていると、口の中がザラザラすることがあるが、きっとそれは黄砂のせいだろう。
しかし、今年は昨年ほど酷くはないようだ。
昨年は、晴れていても太陽がぼんやりしていることが多かったが、今年はそれがない。

ところで、昨日の夕方、不意に野生の勘というのが働いた。
風が止むのがわかったのだ。
まだ風はビュービューと音を立てて吹きまくっていたのだが、空を見た時に「あ、これで風が止む」という予感がした。
その予感通りに、風はほどなく収まった。
その後も風は吹いたものの、残り風に過ぎず、もう突風は吹かなかった。

野生の勘というのは、昔からよく感じていた。
例えば学生時代、よく「この先に行くと危ない」という殺気のようなものを感じていたものだ。
そこで行くのをやめていれば何と言うことはないのだが、けっこうそういう時というのは、そこに行かなければならないことが多い。
しかたなく「いや、きっと考えすぎだ」と自分に言い聞かせながら行ってみると、そこにガラの悪い他校の生徒がたむろしていて、因縁をつけられた、という経験が何度かある。

これも学生時代の話だが、ぼくはよく時計を忘れて学校に行ったものだ。
通学時バスに乗っている時や、学校に着いてからいつも気づいていた。
帰りのバスの時間を見る時に、時計がないとすごく不便なのだ。
ところが、そういう時に限って体内時計が働いた。
例えば授業中、突然頭の中に「○時○分」というのが見えてくる。
そこで隣の席の人に、「今、○時○分やろ?」と訊いてみると、ピタリと合っていた。
おかげで帰りのバスにも、乗り遅れたことはない。

こういう勘は年とともに薄れていくものであるが、ぼくの場合、今でも時々働く。
「ここが人生の節目だ」という時に、そういうことが多い。
最初の会社を辞めた時がそうだった。
突然「ここでの仕事は終わった」というような勘が働いたのだ。
そしてその後、自ずと辞める方向に流れて行った。

この間辞めた時もそうだった。
あの時は、ラジオで『はっぴーえんど』の歌を聴いていた時に、突然、会社を辞めて次のステージに移るような気がしたのだ。
その勘が働いてから後、だんだん居場所がなくなっていき、結局半年後に辞めたわけだ。

もしかしたら昨日の勘は、節目が来ているというお知らせかもしれない。
「人生の風が止む」という暗示だったら嬉しいけどね。


このところ毎日歩いているが、不思議に思っていることがある。
それは日曜日とその他の日との雰囲気の差である。
平日は慌ただしく感じるが、日曜日はのんびりとした感じがするのだ。
確かに平日と比べると日曜日は車の流れが違うし、人の歩き方も違っている。

だが、違うのはそういう人為的なものだけではない。
日曜日は空ものどかであるし、空気も柔らかく感じる。
うちの近所では平日だと聞こえないトンビの声が、日曜日には聞こえたりする。
カラスの鳴き声も日曜日は殺伐としてないし、小鳥のさえずりも日曜日はのんびりして聞こえる。
つまり、自然界も日曜日モードなのだ。

もしかしたら、ぼくが日曜日を意識して見るから、そう思うのかもしれない。
しかし、そればかりではないような気もする。
日曜日は、家でくつろいでいる人が多い。
そういうくつろいだ『気』が空に伝わり、空気に伝わり、鳥に伝わって、日曜日ののんびりした雰囲気を作っているのではないのだろうか。
そう考えると、なぜ江戸時代がのどかだったのか、という理由もわかるような気がする。


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