頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

カテゴリ: 東京時代

東京にいた頃、下宿の近くに戸塚第二小学校というのがあった。
所在地は新宿区高田馬場なのに、何で戸塚などという横浜の地名が付いているのだろうかと、そこに住んでいる時は不思議に思っていたものだ。

その理由を知ったのは、東京を離れてからのことだった。
古い小説を読んでいて、その地名を目にしたのだ。
それを読んでいくうちに、ぼくが住んでいたあたりは、かつて戸塚と呼ばれていた地区だったというのがわかったわけである。

そういえば、これも後で知ったことだが、そのへんを管轄している警察署は戸塚警察署という名前だったらしい。
そこに住んでいる頃は、高田馬場署とか早稲田署という名の警察署、もしくは新宿警察署が管轄している思っていたので、それを知った時はちょっと意外な気がしたものだ。
まあ、管轄の警察署を知らないということは、悪いことではない。
そういうところにお世話にならなかった証拠になるからだ。


東京にいた頃、ぼくは高田馬場に住んでいた。
早大生でもないのに、どうして高田馬場かというと、不動産屋に下宿を探しに行った時に、先方が「どういうところがいいですか?」と聞くので、「本屋の近くがいいです」と答えたら、「じゃあここはどうでしょう」と薦められたのが高田馬場だったというわけだ。
山手線内ということで、若干下宿代は高かったものの、資料を見ると、国電(当時)や西武新宿線の駅からは歩いて5分と近く、地下鉄駅にいたっては歩いて1分もかからない。

さっそく現地を見に行ったのだが、造りが古いことを除けば、日当たりもよく、台所も備えてあり、まずまずの印象だった。
何よりもよかったのは、駅を降りて下宿に帰るまでに、3軒の本屋があったということだ。
しかもそのうちの1軒は、地下鉄駅のすぐ横、つまり下宿から歩いて1分の位置にあった。
不動産屋に戻ると、係の人が「どうでしたか?」と聞くので、「今日からでも住みたいです」と答え、さっそく手続きをした。

で、高田馬場にどんな想い出があるのかというと、本を買った・立ち読みした、近くの牛丼屋の牛丼は妙に油は多かった、といった日常生活的な記憶以外に、そう大した想い出を持ってはいない。
それは、東京に出た最初の年こそ、せっせと下宿に帰っていたものの、次の年あたりから友人たちの家を泊まり歩くようになったためだ。
昨日は埼玉、今日は千葉、明日は神奈川といった生活をくり返していたのだ。
そのため、東京にいるのは週1回程度だった。
後で聞いた話だが、下宿のおばさんは、ぼくがいつもいないので、実家に「何で毎日下宿に帰ってこないんですか?」と馬鹿な電話をかけたりしていたようだ。

ぼくの知っている範囲では、高田馬場はのんびりした街という印象だった。
が、夜中の騒音には悩まされた。
さて寝ようかなと思っていると、突然「ドワー」という大音響。
「万歳」が聞こえてくる。
怒号が聞こえてくる。
嗚咽が聞こえてくる。
近くにこれと言った飲み屋がないのに、何の騒ぎかと思ったら、翌日の新聞を見て納得した。
東京六大学野球で早大が優勝したのだった。
大学内やその近辺の飲み屋で出来上がった学生が、その勢いで高田馬場に繰り出していたのだろう。
優勝は嬉しいかもしれないが、付近の住民にとっては迷惑な話である。

迷惑と言えば、駅前でよくヘルメットをかぶった早稲田の学生が、メガホン片手に何やらわけのわからない演説をしていた。
ぼくが東京にいた時期は、70年安保から10年近くもたっており、学生運動もかなり下火になっていた。
唾を飛ばして訴えている内容にも、具体性はなく、どこかピントのはずれたものだった。
何人かの学生がビラを配っていたが、受けとる人もいなかった。
ぼくはそれを見てある種の臭みを感じていた。
臭み、それは自己顕示・自己陶酔・自己満足だった。
きっと彼らは政治批判にかこつけて、自分たちの頭の良さを顕示していたのだろう。

後年、東京に出た際に、時間が余ったので高田馬場に寄ったことがある。
駅前はあいかわらずで、右手にビッグボックス、正面に芳林堂といった風景は変わっていなかった。
が、ぼくのいた下宿付近は大いに様変わりしていた。
第一、下宿自体がなくなっている。
しかも、そのへんに大きな建物が建っており、どの位置に下宿があったのかさえわからなくなっていた。
下宿は、早稲田通りから路地に入ったところにあったのだが、一瞬その入り口を間違えたのかと思ったものだ。
しかし、目印である地下鉄の階段はちゃんとそこに存在していた。
本屋もちゃんとあった。
ぼくが一度だけ利用したことのある床屋も、そこにあった。
しかし、あまり滞在したことのなかったところなので、感慨といったものはなかった。
これが十数年前の話であるから、今行ったとしたら、さらに様変わりしていることだろう。
案外、その路地もなくなっているのかもしれない。


先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。
あれは、夏の帰省前のことだった。

いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。
前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。
その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。
どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。
しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。
そこでボーッとしていた時だった。
前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。
えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。
が、浅草に知り合いはいない。

おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。
そこでぼくも「こんにちは」と言った。
「いい天気ですねえ」
「はあ、いい天気ですね」
「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」
「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。

「どちらから、来られましたか?」
「八幡からです」
「ああ、八幡ですか。製鉄の」
「はい」
「観光か何かで?」
「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」
「ほう、それはいい心がけですねえ」
「はは…」

しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。
時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。
そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。

その時だった。
おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。
あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。
が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。
するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。
実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。
局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。

「やめて下さい!」
ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。
『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。
ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。
もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。

「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。
その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。
その言葉にカチンと来た。
が、ぼくは振り返らずに歩いた。
少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。
「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。
おじさんの横には、男の人がいた。
いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。


神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。
26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。
その道場には観音像が祭ってあった。
ぼくは中学の頃に、その道場に入門したのだが、入門した頃からずっと観音像の由来を先生に聞かされていた。
先生は支那事変の時に徴兵された際、浅草の観音様にお参りに行ったそうだ。
それが功を奏してかどうかはわからないが、大陸で敵弾にあたり負傷した際、夢枕に観音様が立ち、処方箋を与えてくれたという。
それ以来先生は、観音様へのお参りを欠かしたことがないということだった。

いわゆる観音霊験記である。
しかし、ぼくはその話を聞いて、素直に信じてしまった。
だから、東京に出たその日に、浅草寺に行っている。
浅草寺との縁は、その時から始まったわけだ。
その後、北九州に引き上げるまで、毎月一回以上は浅草寺参りをやっていた。

で、何かいいことがあったのかというと、そうではない。
ぼくは、別にそういうことを期待して、お参りしていたわけではない。
ぼくが浅草寺参りをした理由は、他にある。
確かに、霊験なるものを体験したいという気持ちを持っていた。
しかし、それは最初の頃だけのことだった。
浅草に通っているうちに、だんだんそういう気持ちは薄らいでいった。
そういう不思議体験よりも、もっといい体験ができたからだ。
それは、そこに行くことで嫌なことが忘れられる、ということだった。
浅草寺で観音様を拝んでいるうちに、人間関係や貧乏生活などでくさくさした気持ちが、いっぺんで吹き飛んだのだった。
これこそ、本当の意味の霊験ではないだろうか。
言い換えれば、ぼくにとっての浅草寺は、ちょっといい気持ちになれる場所、ということになる。

ところで、ぼくは浅草に行っても、浅草寺以外に行くところはなかった。
地下鉄を降りたら、すぐさま雷門にむかい、仲見世を通って、浅草寺の境内に入った。
観音様を拝み、境内を少しブラブラし、来た道を戻った。
浅草の滞在時間は、平均すると30分くらいだった。
そんなわけだから、もし人から「浅草に何か想い出があるのか?」と尋ねられても、「浅草寺に行って、拝んで、すぐに帰りました」としか答えられないだろう。

ん?
何か忘れているような気がする。
・・・・・
ああ、思い出した。
そういえば、一つだけ強烈な想い出を持っていた。


『あしたのジョー』の中での話。
力石徹がジョーとの対戦のために過酷な減量している時、マンモス西がジムをこっそり抜け出して、屋台のうどんを食べに行った。
それを知ったジョーは、西を追いかけて行き、うどんを食べている西を殴った。
「こんなところを見たくなかったぜ、西…」「ぶざまだな。みじめだな…」「おまえはもう、みそっかすになりさがったんだ…。おれや力石の生きる世界からな」「見たくなかったよ…。お前を信じていたかったよ」
腹を殴られ、鼻からうどんを出しながら、西は言った。
「おっちゃんが、いつかいったとおりやった…。一度のんでしもうたら…、一度食ってしもうたら、それまでの減量が、苦しければ苦しいほど…、もう、耐えられんようになる…、と」「わいはあかん…。わいはだめな男や…」

そう、ぼくは一日一食の決心を破り、禁断の木の実を食べてしまった。
西の言うところの、「だめな男」に成り下がったわけである。
その翌日から、食べた食べた。
一ヶ月分30食のラーメンは、2週間ももたなかった。
もちろん、『サトウの切りもち』も。

月の初めにバイト料と仕送りでそこそこ潤っていた生活費は、最初に買ったラーメン代と切りもち代、玉子・キャベツ・ガーリック・酒、さらに友人たちとの飲み代に消え、手元にはもう5千円も残ってなかった。
その一年前に、2週間で2千円の生活を強いられたことがあるが、その再来である。
またあんな地獄の生活をしなければならないかと思うと、気が重くなった。

「どうしよう?」
その頃、すでに九州に戻ることを決めていたため、バイトは辞めていた。
しかし、背に腹は替えられない。
「もう一度、バイトをするか」と一度は決意した。
しかし、バイトを始めるにしろ、すぐにはお金が入ってこない。
とにかく、問題は今なのだ。

いろいろと迷ったあげく、ぼくは一つの決断をした。
それは、借金である。
まあ、借金と言っても、サラ金に手を出すのではない。
横須賀の叔父に借りるのだ。
すぐさま公衆電話に走り、叔父に電話をかけた。
「おいちゃん、頼みがあるんやけど…」
叔父は快く(?)了解してくれた。
「絶対返すけね」
そう言って電話を切った。

そんなこんなで、ぼくはその月を何とか切り抜けた。
「力ラーメンは力にならん。こんなものに頼っていると、ろくなことはない」と悟ったぼくは、買いだめなどという馬鹿げたことはやめることにした。
その後、四苦八苦しながらも、何とか東京での生活を終えることが出来た。
もちろん、残りの東京生活で、力ラーメンを食べることはなかった。

今でもたまに力ラーメンを食べることがあるが、その時はいつもあの頃のことを思い出している。
そういえば、東京にいた頃の体重は65キロだった。
今はそれよりも10キロ太っている。
いろいろなダイエット法を試してはいつも失敗しているのだが、そんなことをやらずとも、一人暮らしをすれば痩せられるのだ。
本当にダイエットが必要な時は、一人暮らしでもやってみるか。


こんなぼくでも、東京に出た当初は自炊をしていた。
そのおかげで、最初の頃、ほんの少しの期間だったけど、計画的にお金を遣うことができた。
まあ、それが出来たのは、まだ友だちもいなかったということのほうが大きかったのだが。

で、どんな料理が出来るのかというと、みそ汁と目玉焼き、それとラーメン(もちろんインスタント)である。

みそ汁と目玉焼きは東京に出てから覚えた。
一方の、ラーメンは年季が入っている。
何せ、出前一丁の出端の頃から作っているから、東京にいる頃には、すでに10年以上のキャリアがあったのだ。
だから、ラーメン一つ作るのに、かなり凝ってしまう。

西友ラーメンを作る時でさえ、これに玉子とキャベツを加えて、ガーリック入れ、隠し味に酒をちょっと入れてみるとか、いろいろ工夫していた。
その工夫が落とし穴だった。
そのために玉子を買い、キャベツを買った。
ガーリックがなくなればガーリックを買いに行き、「酒が足りん」と思えば酒を買いに行く。
そんなことをやっていたので、ラーメンだけで終わるはずの食費が、それだけでは終わらなくなってしまった。
もちろん、飲みごとは定期的にやっていたが、ラーメンの具や酒などの余計な出費があったせいで、通常の半分くらいしか参加出来ない。
そのため、友人からは「しんた、最近つきあい悪いなあ」と言われる始末だった。

もう一つの誤算は、いくらモチを入れているとはいえ、ラーメン一杯では足りなかったことだ。
下宿で食事をする時は、8時頃に食べていた。
その後、風呂に行ったり、ギターを弾いたりして、夜を過ごしていた。
寝る時間は特に決めていなかった。
眠たくなった時に寝ることにしていたので、10時に寝ることもあれば、深夜4時5時、ひどい時には徹夜することもあった。
だいたい、深夜3時くらいに寝ることが一番多かったようだ。
それまで起きていると、当然空腹と闘わなければならない。
その空腹感のピークは12時前後だった。
朝昼と抜いているので、その空腹感たるや尋常ではない。
もう、吠えたくなるくらいだった。
それでも、最初のうちは我慢していた。
が、早くも3日後には限界がやってきた。
我慢して寝てしまおうと思ったが、自制心が利かない。
そこで、「今日は特別に腹が減っているんだ。また明日から一食に戻せばいい」と自分に言い聞かせ、禁断の翌日分のラーメンに手を出した。
とはいえ、罪悪感からか、その日はモチを入れなかった。
玉子もキャベツも入れなかった。
ただ、味の都合上、ガーリックと酒だけ入れた。

こういう空腹感の元で食べるラーメンは、本当においしいものである。
その日は、その感触を充分に味わった。
それが自滅の第一歩だった。


東京にいた頃、ぼくは食うや食わずの生活を強いられていた。
強いられていたは大げさだが、要は自分でそういうふうにしてしまっていたのだ。
原因は、ぼくの金遣いの荒さである。
バイト代や仕送りなどで、まとまったお金が入ってくると、いつも飲みに行っていた。
しかも、それは一日では終わらない。
一週間くらい続けてである。
そんな具合だったので、お金はすぐに底をついてしまった。
ひどい時には、2千円で二週間を過ごすこともあった。
そういう苦しい経験をしているのに、あいかわらずぼくは、お金が入ると飲みに出かけるのだった。

「これではいかん」と反省したのは、東京で生活を始めてから1年9ヶ月、つまり九州に戻る3ヶ月前のことだった。
とはいえ、その1年と9ヶ月の間に作った、数多くの飲み友だちとの関係を壊したくない。
しかし、そういう生活を続けていく限り、ぼくはのたれ死んでしまう。
「では、どうしたらいいか?」
ぼくはアルコール漬けになった頭で必死に考えた。

考えること一日、ようやく結論がでた。
それは、「少なくとも一日一食はしよう」ということだった。
そのためには、お金が入ったら、食料を買いだめしておくことだ。

ということで、下宿近くの西友ストアに行って、何を買いだめするかを決めることにした。
今でもそうだが、ぼくはスーパーに入ってから、まず見るのがラーメンである。
そのラーメンに当りがあった。
『西友ラーメン』というのが売っていた。
そのラーメン、他のラーメンに比べるとはるかに安いのだ。
「これは使える」
しかし、ラーメンだけでは空腹感が増すだろう。
そこで、もう一品追加することにした。

「何がいいだろう」と店内を回ってみると、そこに最適なものがあった。
『サトウの切りもち』である。
これ2切れでご飯一杯分に相当する。
「これはいい」
ラーメンと餅だけで満腹になるとは思えないが、それでも空腹感は充分に満たすことが出来るだろう。
我ながらいいアイデアだと思ったものだった。

さて、待ちに待ったお金が入った日、ぼくはさっそく西友ストアに行って、ラーメン30食とサトウの切りもち何パックかを買い込んだ。
「これで、食いっぱぐれはない」
しかし、この計画がいかに惰弱な計画であるかということを、この時のぼくは知るよしもなかった。


東京から戻ったぼくは、仕事を探しながらも、ふるさとを満喫していた。
やはりふるさとはいい。
それまで、力んでいた生活が一気に溶けたのだ。
妙な孤独感もなかった。
すぐに友だちに会うことも出来る。
もしかしたらあの人に会えるかもしれない、という確率も大である。
こちらに帰って1週間ほどたった頃に、ぼくは一つの歌を作った。

「さわやかな 春の風
 懐かしい 海の香り
 ぼくはここで 暮らすよ
 そばに聞く 君の声と

 少しだけ 大人の君と
 少しだけ 子供のぼくと
 小さな家を 建てよう
 二人だけの 家を

  華やいだ 春の夢
  かけまわる 雲の上を
  君とぼく 二人だけで
  他にはもう 誰もいない

 暖かな 春の日よ
 優しく つつんでおくれ
 君をもう 離さないから
 優しく つつんでおくれ」

『西から風が吹いてきたら』を書いてから、まだ1ヶ月もたってなかった。
この心境の変化。
ふるさとの力は、何と偉大なんだろう。
もはやぼくは、何が起ころうとも北九州を離れるまいという気持ちになっていた。
そして、その気持ちは今もまだ続いている。


ある時、ぼくは友人AにN美のことでグチを聞いてもらった。
友人Aは言った。
「やったのか?」
「・・・あのねえ、つき合ってもないのに、何でやらんといけんの?」
「いやー、やっちゃうと大変だよ。あとが」
「だから、やってないって」
言うんじゃなかった。

しかし、結果的にはそれがよかった。
あるコンパの席で、酔っぱらった友人AがN美にそのことで絡み出した。
友人Aが何を言ったのか知らないが、N美は泣きながら「しんたなんて信じられない」と言い捨てて出て行った。

翌日、N美がぼくのところに来て、「話があるんですけど」と言った。
ぼくも言いたいことがたくさんあったので、近くの喫茶店で話し合うことにした。
N美は開口一番、「どうして別れるなら、別れるって言ってくれないの?」と言った。
「別れる? 誰からそんなこと聞いた?」
「Aさん」
「Aが?」
「そうよ。どうしてAさんなんかに相談するの?」
「相談なんかしてない」
「どうしてちゃんと私に言ってくれなかったの?」
「何を?」
「別れるってこと」
「はっきりさせておきたいんやけど、いつおれがつき合うと言った?」
「それは・・・。最初に喫茶店に行った時よ」
「そんなこと言った覚えはない!」
「口にしなかったかもしれないけど、私あの時わかったの」
「何が?」
「しんたが私のこと好きだってこと」
初めて喫茶店に行った時は、N美の相談に乗ってやったのだ。
こちらは真面目に受け答えしていたのに、どこをどう間違ってそんな勘違いをしたのだろう。
ぼくは、そんなに物欲しそうな目をしていたのだろうか。

「悪いけど、そんなことこれっぽっちも思ったことはない」
「つき合ってる時も?」
「だから、つき合ってない!」
「だって、つき合ったじゃない」
「いっしょに喫茶店に行くことがつき合うことか。それならおれは何人もの人と同時につき合ったことになる」
「えっ、何人もの人と同時につき合ったの?」
「・・・。おれは誰ともつき合ってないし、N美はおれにとって、特別な人でも何でもない」
「じゃあ、つき合ってないってこと?」
「そう」
「・・そうなの。じゃあ、別れるのね」
「つき合ってもないのに、どうして別れる別れんの話になるんか?」
「別れるならはっきり言ってほしいの」
ほとほと参った。
この会話が、そのあと30分は続く。

しびれを切らして、ぼくは言った。
「別れると言ってほしいのなら、別れよう」
「・・別れるのね。別れるのね」
そう言ってN美は泣き出した。
うんざりだ。
ぼくはもう、ここにいたくなかった。

しばらくして、N美が「腹が痛い」と言い出した。
席を立ち、トイレに駆け込んだ。
何分か後、N美は青い顔をして出てきた。
「大丈夫か」と聞くと、「吐いたの」と言う。
「困ったのう」
「もういい。帰るから」
「大丈夫なんか」
「別れたんだから、しんたには関係ないでしょ!」
そう言って、N美は席を立った。
しかし、ふらついている。
仕方なく、ぼくはN美を駅まで送ってやった。
その間もN美は泣いている。
しかし、ぼくは何も声をかけなかった。

翌日、友人たちの視線がぼくに集まった。
友人Aがぼくに駆け寄ってきた。
「しんた、どうだった?」
「ああ、あくまでもつき合ってると言うから、『じゃあ別れよう』と言った」
「で、N美は?」
「気分が悪くなったとかで、駅まで送っていった」
「そうか・・・。しんた、さっきN美の友だちから聞いたんだけどさあ」
「え?」
「N美、まだしんたのこと狙ってるみたいだよ」
「どういうこと?」
「昨日、気分が悪くなったって言っただろ」
「ああ」
「それ、どうも芝居だったらしいんだ」
「えっ!?」
「しんたのことだから、送ってくれると思ったらしいんだ」
「吐いて、ふらついて・・。それも芝居やったんか?」
「そうみたい。気をつけたほうがいいよ」

この事件は1月末に起きたのだが、それから2ヶ月の間、ぼくはN美を無視し続けた。
毎日顔を合わさなければならなかったので、けっこうきついものがあった。
バレンタインデーの時だったが、N美がぼくにプレゼントを持ってきた。
しかし、ぼくはそれを受け取らなかった。
受け取れば、またN美は勘違いする。
用があっても、直接声をかけることはせず、N美の友人を通じて話すことにした。
いつしかぼくは、「早く東京から去りたい」と思うようになっていた。

「何も告げずに行くよ
 N美もうぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 ホントにもう二度とね」

3月の末、ぼくは北九州に帰った。
羽田を発った時、ぼくは正直ホッとしていた。


  西から風が吹いてきたら

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね

 雨が降ったってかまわないよ
 傘の一本もいらないよ
 だってぼくのふるさとは
 いつだって晴れているんだから

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 何も告げずに行くよ
 恋人よ、ぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 本当に、もう二度とね…

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね


コンテンツ「歌のおにいさん」に収録している、『西から風が吹いてきたら』の歌詞である。
今年もまた、この歌を思い起こす季節がやってきた。

今考えてみると、東京にいた頃に一番楽しかったのは、上京2年目の春から夏にかけてだった。
前にも書いたが、その頃、浅草橋の運送会社でアルバイトをしていた。
夕方浅草橋の本社に集合して、豊洲埠頭の倉庫に移動する。
そこで荷物の積み下ろしをするのだ。
けっこうハードな仕事だったが、それなりに充実した日々を送っていた。
最後は、作業中の飲酒をチクられて辞める羽目になってしまったのだが、それでも懐かしい思い出がたくさん詰まっている。
生まれて初めて飛行機に乗ったのもその時期だったし、一日に二度も富士山にドライブに行ったのもその時期だった。
バイト時間の都合で銭湯に行けず、毎日下宿の炊事場で頭を洗っていたのもその時期だった。

まあ、そういう楽しい思い出もあれば、辛い思い出もある。
それが、その年の秋から冬にかけてだった。
胃けいれんを起こし、せっかく始めた新しいアルバイトはクビになるし、置き引きにはあうし、あげくにスリにもあってしまった。
まあ、それも懐かしい思い出といえば、いえなくもないが、どうしても思い出したくないことというものは誰にでもある。
ぼくの場合、この歌詞に出てくる『恋人』である。
実はこの『恋人』は恋人ではない。
歌詞の便宜上そう書いただけなのだ。
N美という女の子だった。
背が高く、美人系だった。
10月にN美と二人で喫茶店に行ったのが、ことの起こりだった。
ぼくは東京にいた頃、よく女の子と二人で喫茶店に行っていた。
しかし、それは恋愛感情とか下心とかいうものではなく、ただ単に友だちとして、もしくは相談に乗ってあげる先輩として行っていたに過ぎない。
相手もそのことはわかっていて、ぼくに対してそういう感情は示さなかった。
ところがこのN美は違った。
「いっしょに喫茶店」、即ち「大恋愛!」と思ってしまったのだ。
翌日からN美の態度は変わった。
突然、「しんた!」と呼び捨てである。
何でN美から呼び捨てにされなければならないのかわからなかったが、とりあえず気にしないでおいた。

日がたつにつれ、N美の態度は大きくなる一方だった。
どこかに連れて行けだの、送って帰れだの、わがままばかり言うようになった。
ぼくも甘かった。
最初は何度かN美のわがままを聞いてやったりしていた。
それが彼女の勘違いを助長していったのだろう。


このバイト中、ぼくは一度だけ活躍したことがあった。
マルタイ食品の『長崎チャンポン』というのがある。
九州で大ヒットしたカップ麺で、ぼくがそのスーパーでバイトしていた時に新たに店頭に並べられるようになった。
Hさんが、「お前、これ知ってる?」と聞いた。
「『長崎チャンポン』ですね。知ってますよ。よく食べてましたから」
「おいしいの?」
「はい。おいしいですよ」
「どうやって食べるの?」
「普通どおり食べてもいいけど、玉子とか入れて、ソースを落とすとおいしいですよ」
「ふーん。じゃあ、お客さんに尋ねられたら呼ぶからさあ、ちょっと説明してやってよ」
「いいですよ」
ということで、ぼくは何人かのお客さんに説明した。
「これおいしいの?」
「おいしいですよ。九州では大ヒットしてますよ」
「本当?」
「九州人のぼくが言うから間違いないです!」
「あら、あなた九州の人なの。じゃあ、間違いないわね」
そう言って、お客さんは何個か買っていった。
ぼくはこの時、初めて物を売る喜びを知った。

わりと楽な仕事だったにもかかわらず、ここでのバイトは10日も続かなかった。
それは、この44年間の人生の中でも最大級の病気にかかってしまったからだ。
その病気とは胃痙攣である。
その前の日、ぼくは何も食べなかったのだが、バイトをしている時に空腹のピークを迎えた。
「腹減ったー」などと言っていると、同じバイト仲間が「これ食べな」と言ってアイスクリームをくれた。
おかげで、空腹感はなくなった。
下宿に帰り、タバコを吸っている時だった。
胃に軽い痛みを覚えた。
最初はそれほど気にならなかったのだが、その痛みが周期的に度を増してやってくるようになった。
おそらく空腹のせいだろうと思い、買い置きしていた例の『長崎チャンポン』を食べた。
しかし、痛みは引かなかった。
かえって周期が速くなってきた。
翌朝もその痛みは引かず、下宿でのたうち回っていた。
その日は一歩も外に出ることが出来ず、とうとう連絡も取らないまま、ぼくはバイトを休んでしまった。
後にも先にも、ぼくが無断で仕事を休んだのはこの時だけである。
その状態は一週間続いた。

ようやく体調が元に戻った。
バイトの方は、どうせクビだろうと思っていたので、「クビ」と言われる前に自分から辞めに行った。
バイト先に行くと、ぼくは例の人事の親父に呼ばれた。
親父は「一週間もどうしたんだね」と聞いた。
ぼくは一部始終を話した。
そして、「まだ万全だとは言えないので、一応バイトは辞めたいんですが」と言った。
親父はうなずいた。
何日か分の給料をもらい、ぼくはバイト先を後にした。

その後は決まったアルバイトはしなかった。
北九州への帰省賃稼ぎに、晴海の集中郵便局に行ったくらいだった。
続けてやろうかとも思ったのだが、もはややる気を失っていた。
冬にこちらに帰った時も、夏に行ったアルバイトに一週間通っただけである。
東京に戻ってからは、もう何もしなかった。
残りの東京の日々は遊んで暮らした。

春、北九州に戻ってきた。
いよいよ就職であるが、ぼくはその時点で、まだ就職が決まってなかった。
そこで一年間、長崎屋でアルバイトをすることになった。
アルバイトとは言え、メーカーの準社員扱いだったため、いろいろとノルマを与えられ、責任を負わされた。
もはや以前のような、気楽なアルバイトではなかったのである。
しかし考えてみると、その長崎屋でのアルバイトは、以前にやっていた気楽なアルバイトとは無関係ではなかった。
前にも言ったが、長崎屋でのアルバイトは家電製品の販売だった。
家電の販売は、もちろん配達も伴う。
販売といい、配達といい、すべてそれまでにアルバイトでやってきたことである。
もちろん力もいるから、豊洲埠頭での荷物の積み下ろしで鍛えたことが、ここで役に立つことになる。
倉庫整理一つとってみても、トラックへの荷積みがかなり役に立っているのだ。
人生無駄なことは一つもない。
どこかで繋がっているものである。
毎年夏になると、アルバイトをやっていた頃を懐かしく思い出すのだが、最近はそういう思いを持って、過去を振り返っている。


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