頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。

カテゴリ: 履歴書

これからのことは、エッセイの『長い浪人時代』に詳しく書いているので、簡単に触れるだけにする。

1976年3月、大学入試、ことごとく落とされる。

1976年4月、K予備校入学。
この年、中原中也を知る。

1977年。
3月、大学入試、再びことごとく落とされる。

4月、もう受験勉強は嫌だモードに入る。
祖父死去。

5月、就職活動を行うも、26回落とされてしまう。
外に出ることが恐ろしくなり、約2ヶ月の引きこもり生活が始まる。

7月、芦屋ボートの警備員となる。

9月、中国展のアルバイトに採用される。
一つの転機を迎える。

11月、北九州総合体育館で行われる全日本プロレスのリング作りにかり出される。
その後、運送会社でアルバイトを始める。

12月、アルバイト先で好きになった人に告白するも、「友だちなら」という条件を付けられ、結局あきらめる。

その頃、バイト仲間とよく飲みに行っていた。
その時行きつけのスナックで知り合った人が、阪急ブレーブスに入団することになった。
その激励会の席で、ぼくはガンガン酒を飲み、ガンガン歌いまくった。
ところが、あまりに張り切りすぎたせいで、その後気分が悪くなり、その人が挨拶をしている最中に吐いてしまった。
後のことは、まったく覚えていない。
ただ、翌日バイト仲間からさんざん文句を言われたのは、しっかり覚えている。

1978年。
1月、バイト仲間に成人を祝ってもらう。

2月、友人と漬け物の家宅販売のアルバイトを始める。
1週間ばかり続けたが、その店が閉店するということでやめさせられてしまう。
最後の日のことだった。
小雪の舞う中、行く宛もなく、友人と二人でさまよっていた。
どこに行こうかと迷ったあげく、高校時代に好きだった、というよりも、まだ好きだった人の家に行くことにした。
まあ、買ってもらえなくても、彼女の近況を知ることぐらいは出来るだろうし、あわよくば彼女と再会出来るかもしれない。
そういう期待をもって、彼女の家のドアを叩いた。
が、彼女は大学に行っているということで不在だった。
とりあえず、ぼくは彼女のお母さんに、漬け物を勧めた。
すると、お母さんはその味を気に入ってくれて、他の家も紹介してくれた。
さらに、ぼくたちに「腹が減っているだろう」と言って、食事を出してくれた。

1時間ほどそこにいた。
ぼくとしては、もう少しそこにいて彼女の帰りを待ちたかったのだが、次の仕事があったので、彼女の家を後にした。
その日は、遅くなった。
家に帰り着いたのは、9時を過ぎていた。
帰ってから、さっそく彼女家に電話をかけた。
2年ぶりに聞く彼女の声だった。
夢心地で、どんな話をしたのかも忘れてしまった。
雪は相変わらず降っている。
が、ぼくの気持ちは暖かかった。
その日ぼくはひとつの詩を作った。

 『春の情』

 夜が来て 星がともる
 夢から覚めた 月も色づく
 なぜか人は 急ぎ足で
 行きすぎる

 道ばたには 小さな花が
 眠たげに 目を閉じる
 夜を忘れた鳥が 家を探し
 飛んで行く

  目の前が急に 明るくなって
  夜もまるで うそな公園に
  君と二人 これからずっと
  暮らしていこうよ

 風が吹いて 君は舞う
 春に浮かれた 蝶になって
 ぼくもいっしょに 羽を広げ
 飛んで行こう

これが、東京に出る前の最後の詩となった。

1978年4月、東京に出る。

 (履歴書第一部 完)


ところで、ぼくの抱いていた「さて、どこで会ったんだろう?」の疑問だが、何年か後にやっと思い出した。
それは、夢の中で会ったのだ。
見ず知らずの人の夢を見るということは、その人がぼくの理想の女性だったということになる。
それほど、ぼくにとって大きな人だったのだ。
と、思っていた。
しかし、さらに後年、確かに会っていることを思い出した。
それは中学1年の時だった。
ぼくが一時期バレー部に入っていたということを前に書いたが、その頃のことだ。
5月に、バレーボールの区内大会があり、ぼくたち1年も応援に行くことになった。
その時、その会場の隣で、彼女の所属していたクラブの試合をやっていた。
ぼくは興味本位でその試合を眺めていたのだが、そこにある中学の1年生の団体がいた。
その頃のぼくは、知らない人にも声をかける人間だったので、当然彼女達にも声をかけた。
友人と二人で、ギャグをかましたり、悪態をついたりしたのを覚えている。
その中学が彼女のいた中学だった。
ということは、その中に彼女もいたことになる。
そのことを思い出したのは、30代の後半だった。
しかし、今のところ、それを確認することは出来ない。

ぼくの高校時代は、彼女に始まり、彼女に終わったと言える。
詩作や作曲を始めたのも、彼女がいたからであり、それが高じてミュージシャンを目指し、ありふれた人生を送ることを否定したのも、広い目でみれば彼女がいたからである。
また、『頑張る40代!』では決して触れることがないと思われる、今なお続くぼくの波瀾含みの人生も、「彼女がいたから」ということの延長なのかもしれない。
が、ぼくはそのことで、人生を失敗したなどとは思っていない。
多少波瀾万丈ながらも、いい人生を送っていると思っている。
その意味でも、彼女の存在は大きかったと言える。
もし彼女という存在がなかったら、平々凡々としたありふれた人生を送っていたことだろう。
そして、そのありふれた人生の中に価値観を見いだしていたかもしれない。
しかし、もしそうであったとすれば、このホームページの存在はなかったと思う。

と、高校時代の総括が出来たところで、そろそろ高校を卒業しようと思っているのだが、「2年や3年の時はどうだったんだ?」という方もいると思うので、簡単に触れておくことにする。

1974年、高校2年。
この時代のことは、さんざん書いているので、ここでは割愛する。
何とか人に聞かせることの出来る、オリジナル曲を作ったのがこの頃である。
後にバンドを作るのだが、そのバンドでやった曲のほとんどが、高校2年の時に作ったものだった。

1975年、高校3年。
2年の終業式の日に、これで高校生活が終わったと思った。
高校に入った時から、ぼくは『高校3年生というのは、高校生ではなく受験生だ』と思っていた。
そういう考えを持っていたために、高校2年までに高校生活を楽しむだけ楽しんだ。
その結果、3年の時は抜け殻になっていた。
クラスに溶け込もうとせず、一人孤立していた。
2年までのぼくを知る人間は、その変化に驚いていたようで、「何で2年の時みたいにはしゃがんとか?」などと言ってきたが、ぼくは無視していた。

さて、孤立した目で周りを見渡すと、実によく人の心が見えてくる。
誰もが不安だということが、手に取るようにわかった。
馬鹿やっている者も、真面目ぶっている者も、みんな不安の固まりだ。
ちょっとした会話でさえ、すべて空元気に聞こえる。
もううんざりだった。
結局、うんざり状態のまま、ぼくは高校を卒業する。

1976年3月、高校卒業。


ギターについては、今年の1月に詳しく書いているので、ここでは割愛する。

さて、話はさかのぼるが、この年の4月、例の友人が自殺した日のことだった。
ぼくのクラスに、どこかで見たことのある女子生徒がいた。
『どこかで会ったことがあるんだけど、さて、どこで会ったんだろう?』
そんなことを考えながら、その子のことを何気なく見ていた。
結構活発な子だった。
それに目立つ。
と言うより輝いている。
ぼくの中学校にはいなかったタイプの子だった。
しかし、何か懐かしい感じがする。
『確かに以前会ったことがある。さて、どこで会ったんだろう?』
そのことを聞いてみようかとも思った。
が、聞かなかった。
ぼくは女の子と話すことには抵抗を持たないたちなのだが、その時はどういうわけか躊躇してしまったのだ。

『さて、どこで会ったんだろう?』と思いながらバスに乗り、『さて、どこで会ったんだろう』と思いながら家に着いたところで、友だち自殺の通報があったのだ。
その後もことあるたびに『さて、どこで会ったんだろうか?』と考えてみたのだが、その答はでなかった。
しかし、そのことを考えていくうちに、だんだん彼女から心が離れなくなっていった。

ぼくがはっきりその子のことを「好きだ」と思ったのは、その年の11月だった。
ところが、「好き」と自覚した時に、友人からショッキングなことを聞いた。
「しんた、あの子のことどう思う?」
ぼくは、自分の気持ちを隠すのに必死だった。
「うーん、どっちかと言えば、かわいい方やないんかねえ」
「そうやろ」
「それがどうしたん?」
「おれ、あの子とつき合うことにしたっちゃ」
「えっ!? いつ言うたんね?」
「昨日やけど」
「ふーん・・・」
もちろんその時、友人はぼくの落胆に気づかなかっただろう。

ぼくはその頃右手の小指の骨を折り、それまで毎日行っていたクラブをさぼるようになっていた。
そのため学校が終わるとすぐに帰っていたのだが、帰りはいつもその友人といっしょだった。
その話も、帰る時に聞かされたのだ。
ぼくは目の前が真っ暗になった。
友人の前では努めて明るく振る舞ったのだが、一人になった時、そのことがぼくに重くのしかかった。
「もうおれにはギターしかない」
そう思って半ばムキになってギターの練習をした。

それから毎日、友人から「昨日電話したら、話が長くなってねえ」とか「日曜日に二人で映画に行った」などというのろけ話を聞かされたものだった。
ところが、それから1ヶ月ほどして、友人が「しんた、おれあいつと別れた」と言ってきた。
「どうしたん?」
「彼女が『別れよう』と言ってきた」
「何かあったんね?」
「クラブ活動に打ち込みたいらしい」
「別に、クラブは関係ないやろ?」
「いや、彼女は気が散るらしい」
「ふーん」
ぼくは素っ気ない返事をしながら、内心『これでおれにも目が出てきた』と喜んでいた。
しかし、その喜びは、友人の言った次の言葉で砕け散ることになる。
「で、彼女、高校を卒業するまで誰ともつきあわんと、おれに約束した」
「・・・。じゃあ、高校卒業したら、おまえとつきあうということ?」
「いや、そういう意味じゃないけど」

ところが友人の話は意外な方向に展開する。
「ところで、おれ、本当はあいつより好きな人がおるっちゃ」
「えっ!?」
「実は、あの子は二番目に好きな子やったんよね。本命にはなかなか言い出しきらんでね。で、とりあえず、あの子と付き合うことにしたんよ」
ぼくは言葉が出なかった。
ふざけるな、である。
ぼくは彼女と出会って半年の間、あの子のことをどう思っているのかと、自分の心に問いかけてきた。
そして最終的に出た答が、「好き」だったのだ。
ぼくは一途な恋をする人間なので、いつも『二番目に好き』な人など存在しない。
好きな人は一人である。
いつもその人のことしか思ってない。
それなのにこいつは、である。

やけになったぼくは、その後「彼女が欲しい」が口癖になる。
新しい出会いを探して、その子のことを忘れようとしたのだ。
しかし、その子以上の女性に出会うことはなかった。
その後、8年間も。

8年後に、ぼくはその子を諦めることになる。
それは、彼女が結婚したからだ。
高校時代から書き始めた詩、高校時代から作ってきた歌、それらはすべて、ぼくの彼女への想いであった。
だから、たとえそれが拙い作品だとしても、たとえそれが気障な作品だとしても、その時までは、それらすべてが現実だった。
しかし、彼女の結婚を聞いた時、そういうものがすべて、過去のものになってしまった。


1973年11月、またもや事件が起きた。
柔道部に出入りしていた3年の先輩が、若戸大橋から飛び降り自殺を図ったのだ。
そのことは新聞にも載った。
見出しは『文学青年、若戸大橋から飛び降り自殺』だった。
ぼくは知らなかったが、先輩はよく哲学書を読んでいたということだった。
また、詩を書いていたらしく、新聞にはその詩も掲載された。
ぼくには結構友だちがいるように見えたが、先輩は孤独だったらしい。
先輩からは「1年で知っとるのは、お前しかおらん」と言って、よくかわいがってもらっていたので、その分ショックが大きく、その後しばらく落ち込んでいた。
そのため、クラスの女の子から「しんた君も自殺するんやないんね」と言われたこともある。
その頃のぼくはフロイトなどを読み、詩を書いていたということもあって、彼女はそう思ったのだろう。

さらに訃報は続いた。
2年の人が死んだのだ。
死因は、やはり自殺だった。
頭からビニールをかぶり、そこにガス管を差し込んで死んだらしい。
柔道部の先輩に、その人と同じ中学の出身の人がいた。
通夜に行ったらしいが、「あいつの彼女が来とってねえ。泣き崩れて、見るに忍びなかった」と言っていた。
ぼくは、その人のことを知らなかったので、あまり深い関心を持たなかったが、またもや死について考えるようになった。

それから数ヶ月後、中学の同級生が自殺したとの情報が入った。
その同級生とは、中学1年の頃、何度か遊んだことがあるが、それほど深いつき合いはなかった。
なぜ死んだのかは知らない。
おそらく孤独感にさいなまれてのことではなかったのだろうか。
その頃、『孤独』という名の下に死んでいく若者が多くいた。
それは、一種の流行のようなものだった。

ぼくは昔から自分のことを、孤独な人間だと思っている。
その自覚を根底に行動していると言っても過言ではない。
人と同じ行動をとることが嫌いだし、人と徒党を組むことを好まない。
そのために寂しい思いをしたこともある。
深い谷間に落とされた気持ちになったこともある。
そんなぼくが自殺に走らなかったのには理由がある。
それは、孤独であることを楽しんでいたからだ。
まあ、死に至るほどの孤独感を味わっていない、とも言えるのかもしれない。
しかし、死に至る孤独感がどのくらいのものなのかは知らないが。

1973年11月、ギター入手。
2学期に入ってからのぼくは、「ギターが欲しい」が口癖だった。
いろんな人に「バイトしてギター買う」と言っていた。
そのいろんな人の中の一人にMちゃんという女性がいた。
彼女はぼくと違う中学の出身なのに、どういうわけか、ぼくの家庭環境をよく知っていた。
理由を尋ねてみると、ぼくの従姉がMちゃんの家で働いているとのことだった。
Mちゃんの家は花屋をやっていた。
そこで、いとこがあることないことを言っていたらしい。
当然、Mちゃんを通じて、ぼくの情報も逐一従姉の耳に入っていた。
もちろんギターの件も。
そして、そのことは伯父の耳にも入った。
伯父は父の兄で、高校生がアルバイトをしたら不良になると思っている古い考えの人だった。
ある日、伯父から母に電話があった。
「しんたがギターほしがっとるそうだが、こちらでギターを用意するから、絶対バイトなんかさせんで欲しい」という内容だった。
それから1週間ほどして、伯父の元からギターが届いた。
ここからぼくの人生が変わる。


1973年5月、挫傷。
ぼくが柔道部に所属していたのは、この日記で何度も書いている。
1年の前半、それは真面目にクラブに通ったものだった。
5月、練習中に足の親指をねじってしまい、一時は人の肩につかまらなければ歩くことの出来ない状態になった。
それでもクラブには休まずに通い、練習に励んでいた。
人間一生懸命になれば痛みを忘れるものだということを、その時知った。
しかし、そのせいで完治するのに3ヶ月を要してしまった。

1973年9月、ドブさらい。
夏休みが終わり、運動会の準備に追われている頃だった。
ぼくのクラスは、1年の校舎につながる渡り廊下の掃除を任されていた。
その渡り廊下の横に小さな溝があった。
その溝の中程が出入口と重なっていたため、その部分だけ溝に落ち込まないように長さ2メートルほどの蓋がかぶせてあった。
その蓋が弊害を生んだ。
その蓋の中、つまりトンネル部分に何かが詰まってしまい、そこだけ水が流れなかった。
そのために溜まった水が腐り、あたりに悪臭を放っていた。
蓋は開かないし、その中に詰まっているものもなかなか取れないので、掃除当番もそこだけは掃除をしなかった。

ある日、そこの掃除当番がそのトンネルの周りに集まっていた。
ぼくが「どうしたんか?」と聞くと、当番は「水が流れんけ、ちょっと覗いてみたら、中にゴミが一杯詰まっとるんよ。少し取ってみたんやけど、その奥に何か硬いものが当たって、それ以上取れんっちゃ」と言った。
「ふーん」と、ぼくは素っ気ない返事をし、そこから立ち去ろうとした時だった。
誰かが「これを取り除くのは不可能やろ」と言った。
その『不可能』という言葉に、ぼくの血が騒いだ。
「ちょっと、見せて」とその中を覗いてみると、たくさんのゴミが詰まっていた。
「地道にこれを取ればいいやん」
「おれたちも何度か挑戦したけど、無理っちゃ」
「じゃあ、おれがやってみる」
と、ぼくは竹の棒を持ってきて、溝掃除を始めた。
なるほどけっこうたくさんのゴミが詰まっている。
パンの袋や、紙くずや、中には人形なんかも入っていた。
その日、けっこう取り除いたものの、まだ20センチ程度しか掘り進めなかった。
「明日する」
そう言って、ぼくはクラブに行った。

翌日、掃除の時間に、ぼくはまたドブさらいを始めた。
その日も紙くずや木ぎれの除去に終わった。
次の日から、休み時間まで利用してドブさらいをするようになった。
そして次の日、50センチほど掘り進んだ時、ようやくそのトンネルに詰まっているものの実体をつかんだ。
どこからともなく木の根が這ってきて、そのトンネルの中ではびこっていたのだ。
ぼくは唖然とした。
なるほどこれは不可能である。
木の根の除去は困難を極めた。
少しずつ、根っこの先は取れているのだが、実体はビクともしない。
引いてもだめだから、今度は逆から棒を突っ込んで、押し出す方法をとった。
しかし、動かない。
いよいよ作業に行き詰まってしまった。
そんな時、ぼくがそこの掃除をしていることを知ったクラブの先輩が、「お前、あんなところを掃除しよるんか。おれ、1年の時にあそこで小便したぞ」などと言ってきた。
作業は進まない、先輩の小便・・、いろんなことを考えていくうち、だんだんドブさらいに嫌気がさしてきた。

その日も、作業をしていたが、全然進展しない。
「もうやめよう」と思っていた時だった。
ふと周りを見ると、ギャラリーがいるのだ。
他のクラスの人間だった。
ぼくに「貫通しそう?」などと聞いてくる。
「いやあ、むずかしいねえ」
「ふーん、大変やねえ。でも頑張ってね」
その時、ぼくは『やめるわけいかんなあ』と思った。
トイレに行っても、知らない人から「あ、今日はドブ掃除せんと?」などと声をかけられる有様だ。
いつのまにかぼくは、ちょっとした『時の人』になっていたのだ。

さらに、やめられない理由が出来た。
以前書いた、『その後のぼくの人生を変える人』がぼくに注目し始めたのだ。
彼女はぼくに「何でこんなことしよると」とか、「しんた君、変わっとるね」などと声をかけてきた。
ぼくは内心嬉しかったが、「うるさい」などと言って、ブスッとした顔をしていた。
しかし、これはチャンスである。
もしここでやめたら、こんなにカッコ悪いことはない。

10日ほどして、ようやく光が見えてきた。
中を覗いてみると、1メールほど掘り進んでいるのがわかったのだ。
残り1メートルだ。
その時からぼくの気持ちは、『困難だ』から『何とかなる』に変わっていた。
そして2日後、何とかなった。
いつものように棒を突っ込むと、何か硬いものに触れた。
これは何だろうと、棒の先にその硬いものを引っかけて、思いっきり引っ張ってみた。
「ズズッ」という音がした。
1メートルほど長さの黒い固まりが出てきた。
トンネルの中を覗いた。
あちらが見える。
ついに貫通した。

教室に戻ると、みんなが「おめでとう」と言って祝福してくれた。
ぼくがドブさらいをやっていることを知らないと思っていた担任までが、「お、しんた、開通したか」と言っていた。
しかし、その後何が変わったわけではなかった。
ぼくはいつものように、教室で声を張り上げ歌を歌っているだけだった。


高校に入学した頃のぼくは、中学までとはうってかわって、もの静かな人間だった。
理由は二つある。
前にも話したが、友人の死というのが、その一つだ。
そういう初めての経験が、ぼくの中で処理できないでいた。
授業中に、死について考えていることもしばしばあった。
そういう時に限って、先生から質問が飛んでくる。
生まれつきの勉強嫌いが、予習復習などするようなことはない。
したがって、答えることが出来ない。
立ったままじっと黙っていた。
休み時間にはふさぎ込んでいるし、おそらく周囲の人間は、ぼくに暗い人間のイメージを持ったに違いない。

もう一つの理由に、クラスに同じ中学出身の男子がいなかったというのがある。
ぼくと同じ中学からその高校に入ったのは13人だった。
内訳は、男子が3人、女子が10人である。
当時は1学年450人いた。
13人というのは少ない。
さらに3人というのは、いないに等しい数である。
当然ぼくたちは、バラバラに振り分けられた。
おかげでぼくは、まったく知らない人たちの中で過ごさなければならなかった。
ぼくは転校をしたことがなかったし、小学校の同級生のほとんど全員が同じ中学に行ったので、まったく知らない人の中で過ごすということがなかった。
そのため、慣れない人たちと話すことに躊躇していた。
その点、他の中学から来た人間は、とりあえずは同じ中学出身者としゃべってればいいのだから気が楽である。

そうやって1ヶ月が過ぎる頃、クラスの色というものが出来つつあった。
くそ面白くもないキザな男が、みんなの笑いを取っている
このままクラスの色が出来上がってしまうと、一年間、クラスはその男を中心に回ってしまう。
さらにぼくは、目立たない暗い男に成り果ててしまう。
「これはいかん。落ち込んでいる暇はない」
そう思ったぼくは、ある作戦に出る。
当時、巷ではぴんからトリオの『女のみち』という歌が流行っていた。
休み時間に、ぼくはその歌をちゃかして歌ってみた。
それを何度かやっているうちに、みんながぼくのことを注目し始めた。
それから、小中学校で培った笑いネタをガンガンやった。
それがウケた。
これでキザ男中心のクラスにならずにすんだ。

それ以来ぼくは、いつも歌ばかり歌っていた。
別に『女のみち』をやり続けたわけではない。
その頃、吉田拓郎の洗礼を受けたのだ。
中学の頃から拓郎は知っていたが、あまり関心は持ってなかった。
あれは、ぼくが『女のみち』をやり始めて、しばらく経ってからのことだった。
たしか、中間テストの頃だった。
その日、クラブは試験休みだったので、早く家に帰ったぼくは、することもなくラジオを聴いていた。
その時、吉田拓郎特集をやっていた。
「6月に発売される吉田拓郎のアルバム『伽草子』の中から、何曲かお届けします」
しばらく流して聴いていたのだが、『制服』という曲が鳴り始めた途端、ぼくは頭を殴られる思いがした。
ギター一本の弾き語りだったのだが、ああいう説得力のある歌を聴いたのは初めてだった。
それからぼくは、拓郎にハマっていくことになる。

それまで、ぼくは中学までと同じように、お笑い路線で高校生活を送ろうと思っていた。
しかし、その時から拓郎路線に変更した。
寝ても覚めても拓郎だった。
拓郎の歌を覚えては、休み時間に大声を張り上げて歌っていた。
現在ぼくがカラオケで歌うのは、この時歌っていた拓郎の歌が圧倒的に多いのだが、おそらく体に染みついてしまっているのだろう。

身につけたものは歌だけではない。
しゃべり方や考え方も、拓郎に沿ったものになっていった。
ある程度拓郎になりきった時、一つ足りないものがあるのに気がついた。
ギターである。


1973年4月、福岡県立×高校入学。
この高校は、前にも書いたとおり、女子の多い高校だった。
元高等女学校ということもあり、女子にとっては名門高校だった。
後年、同級生の女の子に就職を紹介したことがある。
その時、面接の人が「ほう、×高校出身ですか」と言って感心していた。

しかし、男子はそうは見られない。
周りの高校から、「あの高校には軟派な男が多い」と言われていた。
面白くないのは、近くの工業高校の生徒である。
彼らは、ただでさえ女っ気がなく悶々とした生活を送っている。
そういう彼らにとって、ぼくたち×高校の男子はやっかみの対象だった。
かなりの数の人間が、彼らに殴られたり、たかられたりという被害に遭っていた。

3年の時だったが、部活を終えて、ぼくたちは何人かでお好み焼き屋に行った。
お好み焼きの焼き上がりを待っている時だった。
ががやがやと例の工業高校の生徒が多数入ってきた。
彼らはぼくたちを見るなり、「お、×高校の奴がおる」となめた口調で言った。
ぼくたちはそれを聞いてカッとしたが、トラブルを起こすのが嫌なので無視していた。
彼らは、
「女ばっかり追いかけていい身分やのう」
「あいつ、ホック開けとうぞ。えらそうやのう」
などと、ぼくらに聞こえるように言った。
その時、その雰囲気を察したお好み焼き屋のおばちゃんが、機転を利かせた。
「あ、×高の柔道部の人。もうすぐ焼けるけね」
おばちゃんがそういうのを聞いて、工業高校の奴らは「あいつら、柔道部らしいぞ」と小声で言った。
それから、店の中は静かになった。
お好み焼きを食べ終わり店を出る時、ぼくはそいつらのほうを見た。
すると、そいつらはみな下を向いた。
男子が多くいるから強いつもりでいるが、所詮その程度の人間の集まりである。

しかし、「柔道部」というのが効かない学校もあった。
今話題になっている国の高級学校である。
ぼくはその学校の生徒から、同じ日に二度被害を受けたことがある。

1年の夏休み前のことだった。
行きがけ、友人とバスを待っている時のこと。
突然、一人の男がぼくの腕をつかんできた。
何だろうと思っていると、その男は「おい、100円持ってないか」と言う。
ぼくが「持ってない」と言うと、その男はぼくの横にいた友人に「お前は?」と聞いた。
友人も「持ってない」と言った。
その男は、その横にいたもう一人の友人にも同じことを聞いた。
その友人も同じ答だった。
男は頭に来て、「ふざけるなよ」と言うなり、端にいた友人の腹部に蹴りを入れた。
続いて、ぼくの横にいた友人にも蹴りを入れた。
次はぼくの番である。
しかし、ぼくは男の手を振り払い、2,3歩男から離れた。
男がぼくに襲いかかろうとしたので、ぼくは身構えた。
そして「持ってないもんは持ってないんたい!!」と大声で怒鳴った。
その一喝が効いたのか、男はそれ以上ぼくに近づこうとはしなかった。
そして、通りを歩いている学生を振り払いながら、男は駅の方に行った。
友人たちの方を見ると、彼らは腹を押さえてうなっていた。
ぼくが駆け寄ると、友人の一人が「しんたもやられたんか」と聞いた。
ぼくは、身構えて男を一喝したということは話さずに、「おれは逃げた」と答えておいた。

その日は試験期間中だったので部活は休みだった。
当然いつもより早く帰れる。
ぼくはクラスの友人と、普段とは違う道を通って帰った。
その道は野球場の裏側の道だった。
そこには林があるのだが、友人とその林にさしかかった時だった。
一人の男がぼくたちに近づいてきた。
「おい」と彼は言った。
「あ!?」とぼくが振り向くと、彼はぼくの横っ面を殴った。
そして、彼はぼくにナイフを突きつけた。
「こっちに来い」
ぼくたちは仕方なくついていった。
そこには彼の仲間がいた。
そして、彼らの一人がぼくたちに向かって、「こら、お前たち、おれたちのことを朝鮮ちいうて馬鹿にしよるやろうが」と言った。
ぼくは『チッ、こいつら朝高か。面倒やのう』と思いながら、「別に馬鹿にしよらんよ」と言った。
「うそつけ」と彼は、ぼくの頬を殴った。
二度も殴られたので、ぼくは頭に血が上り、その男を睨みつけた。
「なんかその目は?」
さっきの男がそう言って、またナイフをちらつかせた。
すると、他の男が「おい、ナイフはやめとけ」と言った。
ぼくは『こうなれば一戦交えんといけん』と腹をくくった。
ところがその時、『ナイフはやめとけ』と言った男が、「お前たち、もう行ってもいいぞ」と言った。
ぼくたちが唖然として立っていると、「早く行け」と言った。
ぼくたちは、その場を離れた。

後でわかったことだが、その日朝高は休みだったらしい。
ということは、朝の男も朝高の人間だったのだろう。
高校生面をして、私服を着ていたのだから。
しかし、二度もこんな目に遭うなんて、最悪な一日だった。
その後、ぼくは体格がよくなったせいか、こういう被害に遭うことはあまりなくなったが、他の生徒はけっこうやられていたようだ。
そんなふうに、ぼくの行った×高校は、女子が多いからというだけで、男子は弱いとなめられるような学校だった。
また、女子が多いというだけで、『恋愛学校』と呼ばれる学校でもあった。


さて、昨日は中学時代を書いた。
今日は当然高校時代を書くわけだが、この二つの学校の入学式前後に、どうしても忘れることの出来ない事件がある。

中学入学の2日ほど前に、ぼくは母の知り合いのUさんから入学祝いを買ってもらうことになり、Uさんの車に乗って街まで出た。
午後8時を回った頃、出かける時は小降りだった雨が、本降りになった。
「ああ、とうとう本降りになったね。急いで帰ろう」
そう言って、ぼくたちは車に乗った。
車の中で、ぼくは将来の抱負などを語っていた。
車が走り出して10分ほど経った頃だったろうか、助手席に乗っていたぼくの前に、突然黒い物体が現れた。
次の瞬間、「ドン」という音とともにその物体は宙を舞っていた。
物体は7,8メートルほど飛んだ後に地面に落ちていった。
運転していたUさんが「やった!」と叫んだ。
ぼくは何が起きたのかわからなかった。
車が急停車し、Uさんはその物体に駆け寄った。
ぼくはUさんを目で追っていった。
そこには中年の女性が倒れていた。
黒い物体は人だったのだ。
その女性は、横断歩道の数十メートル手前を、車を確認をせずに走って渡っていたのだ。
幸い意識はあった。
しかし、翌日容態が急変し、そのまま亡くなってしまった。
ぼくはUさんに悪いという気持ちでいっぱいだった。
しかし、非力なぼくにはどうすることも出来ない。
「あの街に行かなかったら・・」「1秒遅く出発していたら・・」
あの時ほど、1分1秒を悔やんだことはなかった。
さらに困ったことが起きた。
その事故の映像が目に焼き付いてしまって、その後何ヶ月も消えなかった。
目を閉じると、その映像が再現される。
そのうちに車ノイローゼになってしまい、一時は外を歩くのさえ怖かった。
ぼくが運転免許を取るのが人より遅かったのは、この事故の後遺症が残っていたからだ。

さて、高校入学の時事件である。
ぼくの家の近くに、友人が住んでいた。
彼とは保育園からずっといっしょだった。
小さい頃は気性が激しく、ぼくも何度かいじめられたことがある。
それでも、その頃はよく遊んでいたものだ。
しかし、小学生になってからは、いっしょのクラスになったことがないせいか、あまり遊ばなくなった。
そのため、中学1年に彼と同じクラスになるまで、彼がどんな性格になっているのか知らないでいた。
中学時代の彼は、えらく優しい性格になっていた。
以前とは逆で、ぼくのほうからいたずらを仕掛けることがよくあった。
それでも彼は抵抗しなかった。
1年の頃は、将棋をしたり、自転車で遠出をしたりしてよく遊んでいたが、2年、3年と別のクラスになったということもあり、彼とはあまり遊ばなくなった。
その間、彼が何を考え、どういう性格の変化があったのかは知らない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
彼とぼくは、同じ時期同じ人を好きになっていたということだ。
お互いそういうことは口にしたことはなかったのだが、何となく相手の仕草を見てわかった。
まあそれはいいとして、3年の2学期、彼は急に学校に来なくなった。
はっきりした理由は知らないが、噂では入院したということだった。
しかし、ぼくは彼が家にいるのを何度か目撃している。
結局、彼は卒業するまで一度も姿を見せなかった。
その後、彼がもう一度中学3年をやり直すという噂を聞いた。
ぼくがそれを聞いたのは、中学を卒業してからだった。
それから数日後のこと。
Oという友人と公園で遊んでいる時、彼が道ばたを歩いているのが見えた。
一瞬、ぼくとOは顔を見合わせた。
「声かけてみようか?」
「でも、あの噂が本当やったら、声かけるのも悪いし…」
とうとう、ぼくたちは声をかけなかった。
彼もぼくたちのそんなやりとりを察したのか、ぼくたちの視線から避けるように歩いて行った。
それが、彼を見た最後だった。
次の日、ぼくは高校に入学した。
その翌日のことだった。
学校から帰ってくると、電話が鳴った。
誰だろうと電話を取ってみると、Oからだった。
「どうした?」
「・・・、あいつが死んだ」
「えっ、嘘やろ?」
「いや、ほんと。自殺らしい。ガス管くわえて」
「・・・」
「あの時、声かければよかったのう」
「・・うん」
彼がどうして自殺を選んだのかは知らない。
まさか、2日前のことを気に病んでのことではないと思う。
いや、ないと信じたい。
では、1級下の者にいじめられたのか。
それも定かではない。
しかし、このショックは大きかった。
楽しいはずの高校生活も、このおかげで最初は全然おもしろくなかった。
彼のことを思うたびに、気分がめいってしまう。
周りで馬鹿やっている級友たちを羨ましくも思った。
結局、ぼくが高校で本領発揮するのは、それから1ヶ月後だった。
ところで、彼が住んでいた所は、現在駐車場になっている。
今でもぼくは、その前を通る時に、あの頃の暗い気分に戻ることがある。


さて、中学時代のことは、この日記にかなり書いているので、詳しいことはそのへんの日記を読んでもらうことにして、ここでは概略だけ書いておく。

中学1年。
・中学に入学してからすぐにバレーボール部に入ったが、すぐに辞める。
・1学期、習字の時間にクラスの人間とけんかをし、翌日母が学校に呼ばれることになる。
・2学期、技術の授業中に隣の奴とふざけていて先生から呼び出しを食らう。
保健室横の密室で、20発ほどビンタを食らった。
友人は涙声で「許して下さい」と言ったが、ぼくは悔しくてその先生をずっと睨み付けていた。
翌日、また母は学校に呼ばれる。
・同じく技術の時間に落書きをしていた。
例の先生に見つかり、その紙を取り上げられる。
『ぼくはあなたが好きです。あなたのためならヌードになってもいい・・・』という内容だったので、先生の間で問題になり、三度母が呼ばれることになる。
母は、「あんないたずら書きを真に受ける先生がおかしい」と言っていた。
・体育と美術の授業をボイコットしたために、通知票に「1」の字が二つ並ぶことになる。
もちろん、母は学校から呼び出しを食らい、「この中学始まって以来の事件だ」と言われる。

中学2年。
・1学期の中間テストで、突然成績が優秀になる。
ぼくを問題児扱いにしていた学年主任の先生から職員室に呼び出され、「よく頑張った」とほめられる。
が、次の期末テストで成績は元に戻る。
・弁当の時間、毎日仲のいいメンバーと食べていたのだが、最後にはいつもケンカになり、弁当の中に牛乳をかけたり、ぞうきんの汁を入れたりしていた。
見かねた女子が先生に言いつけた。
そのため、それ以来仲のいいメンバーで食べることが出来なくなった。
・『あしたのジョー』を真剣に読み出す。
・夏休み、宇佐神宮の馬にかまれる。
傷跡は20代まで残っていた。
・この頃から日露戦争に関心を寄せるようになり、東郷平八郎がぼくの英雄になった。
きっかけは『時間ですよ』だった。

中学3年。
・忍術の訓練を始める。
高い所に手だけで登ったり、ガードレールの上に飛び乗ったり、後ろ歩きをしたり、手裏剣の練習(ちゃんと先生についた)をしたり、気配をなくす訓練をしたりした。
しかし、こういうことは何の役にも立たなかった。
あ、そういえば役に立ったこともある。
高校の運動会で、平均台の上に乗る競技があったのだが、その時ガードレールの練習が役に立った。
ぼくは平均台の上に軽々と飛び乗り、周囲をあっと言わせた。
・高校受験の勉強をろくにせずに、超能力の勉強ばかりしていた。
ろうそくを立て、心で「消えろ」と念じ、消えるようになったら念力が使えるようになる、とある本に書いてあった。
2ヶ月ほどやってみたのだが、ろうそくの火は揺れることすらなかった。
しかし、これをやったおかげで、後年ぼくは「瞬きをしない人」と呼ばれる。
・翌年通うことになる高校を選んだのは、単純な理由からだった。
それまでは、ぼくはどこの高校でもいいと思っていたのだが、友人が「○高は女のほうが多いらしい」と言うのを聞いて、希望校をその高校にした。

1973年3月、中学卒業。


1970年4月、中学校入学。

「初恋」

いつのまにかの静けさがぼくに
淡い恋心を落としていった
思いもかけないことにように
君を好きになっていた

こんな気持ちは初めてだった
不意に吹き狂う小嵐が
ぼくを包み込むように
日々を攻めつけた

 今想い起こしてみると
 それももう古い昔話
 今でも夢に出てくる、忘れたはずの
 君の笑顔少しぼやけて

ぼくの初恋はいたずら好きの風が
落としていったおかしな夢
思いもかけないことのように
君を忘れていた


小学校入学のところで書き忘れたが、1年の時にぼくは初恋をした。
その子とはキスもしている。
でも、すぐに転校していった。
また3年の時、2度目の恋をしている。
ぼくはその子と結婚すると公言していた。
が、5年になると、その子を好きだったことも忘れた。
で、中学に至るのだが、思春期の恋というものは、それまでの「好き」というのとちょっと違っている。
『アルジャーノンに花束を』で、ハルがエリナ先生に抱いた恋心というのは、きっとぼくが中学時代に抱いた恋心と同じものだったに違いない。
彼の場合、知能と感情のバランスがとれずに苦しんだのだが、ぼくの場合は、成長と感情のバランスがとれなかったせいでかなり苦しんだ。
その人のことを思うと、なぜか胸が痛む。
そんなことは、小学生の頃の「好き」にはなかった。
ぼくの場合、小学生の頃の「好き」は、単にその人の存在が心地よかっただけである。
しかし、中学の恋は違う。
苦しいのだ。
苦しんで、苦しんで、苦しんで、さらに苦しんで、でも満たされない。
そんな悶々とした日々が3年間続いた。

それほど苦しんだ恋だったが、結末はあっけないものだった。
その後、彼女といっしょの高校に通うことになったのだが、高校に入学した翌日、ぼくは、その後のぼくの人生を変える人と出会ってしまう。
中学入学時の出会いや、彼女と口げんかをしたことや、いつも彼女を目で追っていたことや、周りから「しんた、お前あいつのことが好きなんやろ」とからかわれたことが、一瞬にして吹き飛んだ。
中学時代の恋は、その時点で終わってしまった。
たまたまその日、その中学時代の君といっしょに帰ることになったのだが、前の日、いや人生を変える人と出会う前まで抱いていた思いは跡形もなく消えてしまい、彼女はぼくにとってただの人になってしまっていた。

その後も彼女に対してはいっさい関心を持たなかった。
後年、友人たちと彼女の家に遊びに行ったことがあるのだが、全然女を感じなかった。
『いったい、中学の3年間、何を苦しんでいたんだろう?』と今でも思っている。


1968年、花の小学5年生。
『亜麻色の髪の乙女』が流行っていた頃に、ぼくは小学5年生になった。
3年4年と歳を増すごとに、ぼくは悪ガキになっていった。
4年生まではまともにやっていた宿題も、この頃からやらなくなっていった。
それから高校を卒業するまで、ぼくはまともに宿題をしていったことはない。
授業態度も不真面目で、しょっちゅう廊下に立たされていた。
ある日、友人と廊下に立たされている時だった。
北の空に光る物体が見えた。
友人に「おい、今の見たか?」と聞くと、「おう、見た見た」と言う。
「あれは何かのう」
「うーん?」
「あれは円盤やろ」
「そうかのう。飛行機やなかったか」
「円盤っちゃ。それでいいやないか」
ということで、授業が終わった後クラスの連中に「おれたち、さっき空飛ぶ円盤見た」と触れ回った。
「ホントかっ!?」
みんなうらやましがっていた。
しかし、そのことが先生の耳に入り、またもやぼくは叱られることになった。
「しんた君は、廊下に立たされとる間、なぜ自分が立たされたのかと反省せんかったんかねえ?」
「いや、反省してました」
「嘘ついても、わかるんやけね。反省してたのに、どうして円盤なんか見る暇があるんね」
そう言って、先生はぼくの頭を叩いた。
しかしぼくは「確かに見ました」と言い張っていた。

掃除当番もまともにしなかった。
ぼくたちが一番楽しみにしていたのは、月に一度回ってくる便所掃除だった。
そこは、唯一先生の目が届かない場所だった。
もちろん、掃除はせずに、ホースやバケツで水遊びをしていた。
壁に水をかけ、便器に水をかけ、最後は天井に水をかけて、トイレ内を水浸しにして終わっていた。
いつも他のクラスの生徒から、「お前たちが掃除した後、いつも天井から水が落ちてくる」とクレームが付いていた。
しかし、ぼくたちは悪びれもせず、「それだけ真面目に掃除しよるということやろ」とやり返していた。

その頃のぼくは露出狂だった。
当時はまだ水泳の時間でも、女子といっしょに着替えをしていた。
ぼくは最初の頃こそバスタオルを腰に巻いて着替えていたのだが、だんだんそれが面倒になり、ついに「勇気ある者」と言いながらタオルをつけずに着替えてしまった。
それが受けた。
そのうち、男子のリクエストに応え、教壇の上に立って着替えるようになった。
さすがに女子は顔を覆っていたが、中にはしっかり見る者もいた。
そういうことをやったのは、その年が最初で最後だった。
さすがに6年生になったら、恥じらいも出てきたのだ。

その6年生の時も、5年生時代の延長だった。
クラスが変わらなかったので、やることは同じだった。
それにしても、ある面まとまりがよく、ぼくにとっては居心地のいい楽しいクラスだった。
よく叱られてはいたが、先生もいい先生だった。
それから数年後、先生にバイトでお世話になることになる。

1970年3月、小学校卒業。


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